「玄鶴山房」。
芥川の作品の中でもこれは感心できない。
重い肺結核で寝ている玄鶴、腰を抜かして寝たきりのその妻・お鳥。そして二人の娘のお鈴とその亭主(婿)である重吉、彼らの子である武夫。これが家族である。そこに病人の世話をする看護婦の甲野がいる。
話はこの家族の風景を描く。登場人物の心理描写は、自死を試みたときの玄鶴、玄鶴に対する重吉、家族をみつめる甲野だけである。お鈴やお鳥のそれはない。
途中、玄鶴の妾・お芳と、玄鶴との間に生まれた文太郎がでてきて、玄鶴の世話をするために同居をはじめる。お芳はもとこの家の女中であった。お芳の心理描写はない。もちろん子どもたちのそれもない。この二人が同居を始めてから「一家の空気は目に見えて険悪になるばかりだった」。だがその険悪さも、通り一遍の話しかない。
心理描写が描かれないということは、彼らは風景でしかないということだ。心理描写がある者たちのそれも、あんがい表面的で、葛藤を感じない。
もちろん玄鶴は肺結核で亡くなる。火葬場に向かう馬車の一台に、重吉とその従弟が乗る。従弟はリープクネヒトの本を読む。従弟はここだけに登場する。
短編だから仕方がないかも知れないが、描かれたすべての人間の存在が軽い。
芥川自身が自覚する生の軽さを描こうとしたのだろうか。