人生の豊かさは、限りある人生の途上でどれほど「良き人」に巡り会えるかによって決まるのではないか。
今日、『みぎわ』55という雑誌が届けられた。無教会派のクリスチャンの人びとがそれぞれ文や詩を寄稿してまとめられたものだ。
浜松周辺に住んでいる無教会派のクリスチャンらは、「浜松聖書集会」という集まりをもっている。亡くなられるまでその中心にあったのは、溝口正先生である。ボクはクリスチャンではないが、先生の生き方、先生の信念、とくに平和を希求するその精神にいつも感服し、先生の求めに対しては、一度も断ったことはない。先生の声は、正義の声として、ボクには響いていた。先生は、ボクにとって「良き人」の筆頭に位置する。
さて、この『みぎわ』に、もう一人の「良き人」、石原正一さんのことを息子さんが記している。
石原正一さんはもう亡くなられたが、戦時中、父の上官であった人だ。父は石原さん率いる部隊にいた。といっても、ボクは父からそのことを聞いたことはない。父はボクが2歳の時に病死しているからだ。
ボクが長じてからのことだ。毎年、母の所に清水市に住む石原さんからの年賀状があった。その年賀状には、いつも必ず『聖書』からの引用が載せられていた。それはいつも平和に関するものだった。
それに興味をもったボクは、この人は誰かと母に尋ねた。戦時中、父の上官だった人だと教えられた。父が亡くなってから生活に困窮していた母は、石原さんから遺族年金などの手続きについてご教示していただいたという。
石原さんからは毎年、平和を希求する年賀状をいただいていた。
今から20年ほど前か、溝口先生から石原さんのことを教えていただいた。石原さんも、同じように無教会派のクリスチャンであった。あるとき、石原さんが浜松に来られたとき、お目にかかることができた。母からは御礼を申し上げるようにと言われていたので、母からの伝言を伝えるとともに、石原さんから平和を希求するお気持ちを伺った。そのときの光景を、ボクはまだ覚えている。柔和で、謙虚な、ほんとうに「良き人」であった。父が、こういう方を上官にもったことは、しあわせなことだと思った。
父は戦後、日本国憲法9条を読み、戦死した「戦友」の名簿をみながら、「彼らはこのために亡くなった」と語っていたという。父が平和主義者であったかどうかは知らないが、ボクは高校生の頃から、ベトナム戦争の悲惨さを直視するなかで、平和の大切さを認識していた。そしてその後も平和運動に関わっていたが、石原さんはそうしたボクの話を静かに耳を傾け、嬉しそうに頷かれていたことを思い出す。
その後は、母だけではなく、ボクの所にも年賀状が届くようになった。もちろん平和を希求する『聖書』のことばが記されているものだ。
石原さんのご子息が書かれた文には、石原さんみずからが関わった過去の戦争に対する思いがきちんと記されていた。「戦争の罪」、軍国主義、天皇制の愚かさ、教育の怖ろしさ、そして「足を踏まれたほうは、いつでも痛みを忘れられない」、だから「謝罪の気持ち」で接すること・・・・・
2015年、「戦後70年」という年に、最悪の安倍政権のもと、再び愚かにも「参戦」に道を開く法案が「成立」した。
こうした事態をみて、天上から、溝口先生は「(君は平和のために)しっかりやっているか」と叱咤激励していることだろう。石原さんは、柔和な笑みを浮かべながら、静かに見守っているのではないかと思う。
ボクは、こうした「良き人」と出会えたことをたいへん嬉しく思う。溝口先生とは亡くなられるまで長いおつきあいをさせていただいたが、石原さんについてはあまりよく知らなかった。ご子息が書かれた「わが恩恵なんぢに足れり」で、その一端を知ることができた。ボクは、こうした「良き人」に心からの感謝を捧げたい。
そして、溝口先生や石原さんの平和への強い意志を、ボクらは受け継いでいかなければならない。
今日、『みぎわ』55という雑誌が届けられた。無教会派のクリスチャンの人びとがそれぞれ文や詩を寄稿してまとめられたものだ。
浜松周辺に住んでいる無教会派のクリスチャンらは、「浜松聖書集会」という集まりをもっている。亡くなられるまでその中心にあったのは、溝口正先生である。ボクはクリスチャンではないが、先生の生き方、先生の信念、とくに平和を希求するその精神にいつも感服し、先生の求めに対しては、一度も断ったことはない。先生の声は、正義の声として、ボクには響いていた。先生は、ボクにとって「良き人」の筆頭に位置する。
さて、この『みぎわ』に、もう一人の「良き人」、石原正一さんのことを息子さんが記している。
石原正一さんはもう亡くなられたが、戦時中、父の上官であった人だ。父は石原さん率いる部隊にいた。といっても、ボクは父からそのことを聞いたことはない。父はボクが2歳の時に病死しているからだ。
ボクが長じてからのことだ。毎年、母の所に清水市に住む石原さんからの年賀状があった。その年賀状には、いつも必ず『聖書』からの引用が載せられていた。それはいつも平和に関するものだった。
それに興味をもったボクは、この人は誰かと母に尋ねた。戦時中、父の上官だった人だと教えられた。父が亡くなってから生活に困窮していた母は、石原さんから遺族年金などの手続きについてご教示していただいたという。
石原さんからは毎年、平和を希求する年賀状をいただいていた。
今から20年ほど前か、溝口先生から石原さんのことを教えていただいた。石原さんも、同じように無教会派のクリスチャンであった。あるとき、石原さんが浜松に来られたとき、お目にかかることができた。母からは御礼を申し上げるようにと言われていたので、母からの伝言を伝えるとともに、石原さんから平和を希求するお気持ちを伺った。そのときの光景を、ボクはまだ覚えている。柔和で、謙虚な、ほんとうに「良き人」であった。父が、こういう方を上官にもったことは、しあわせなことだと思った。
父は戦後、日本国憲法9条を読み、戦死した「戦友」の名簿をみながら、「彼らはこのために亡くなった」と語っていたという。父が平和主義者であったかどうかは知らないが、ボクは高校生の頃から、ベトナム戦争の悲惨さを直視するなかで、平和の大切さを認識していた。そしてその後も平和運動に関わっていたが、石原さんはそうしたボクの話を静かに耳を傾け、嬉しそうに頷かれていたことを思い出す。
その後は、母だけではなく、ボクの所にも年賀状が届くようになった。もちろん平和を希求する『聖書』のことばが記されているものだ。
石原さんのご子息が書かれた文には、石原さんみずからが関わった過去の戦争に対する思いがきちんと記されていた。「戦争の罪」、軍国主義、天皇制の愚かさ、教育の怖ろしさ、そして「足を踏まれたほうは、いつでも痛みを忘れられない」、だから「謝罪の気持ち」で接すること・・・・・
2015年、「戦後70年」という年に、最悪の安倍政権のもと、再び愚かにも「参戦」に道を開く法案が「成立」した。
こうした事態をみて、天上から、溝口先生は「(君は平和のために)しっかりやっているか」と叱咤激励していることだろう。石原さんは、柔和な笑みを浮かべながら、静かに見守っているのではないかと思う。
ボクは、こうした「良き人」と出会えたことをたいへん嬉しく思う。溝口先生とは亡くなられるまで長いおつきあいをさせていただいたが、石原さんについてはあまりよく知らなかった。ご子息が書かれた「わが恩恵なんぢに足れり」で、その一端を知ることができた。ボクは、こうした「良き人」に心からの感謝を捧げたい。
そして、溝口先生や石原さんの平和への強い意志を、ボクらは受け継いでいかなければならない。