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浜名史学

歴史や現実を鋭く見抜く眼力を養うためのブログ。読書をすすめ、時にまったくローカルな話題も入る摩訶不思議なブログ。

【本】本間義人『地域再生の条件』(岩波新書)

2013-01-24 22:05:52 | 日記
 地域が衰退している、そういう状況が見える。だが、そういう地域ばかりではない。衰退せずにがんばっている地域、一度衰退したがもう一度盛り返した地域、いろいろある。政府が地方切り捨て政策を推進しているが故に、政府の切り捨て政策に流されたまま衰退しているところがあれば、そうではなく、それに抗して自立的な政策を対置して、衰退を食い止めているところがある。

 今、地方は、がんばりどころだ。

 この本には、頑張っているところが紹介されている。頑張っているところは、共通して、政府の言うがままになっていないところだ。自立的な動きをしているところが、衰退を食い止めている。

 さて、この本の内容は、それぞれの章のテーマを並べればよくわかる。

 第一章 なぜ、地域再生なのか
 第二章 人権が保障された地域をつくる
 第三章 地場産業で生活できる地域をつくる
 第四章 自然と共生し、持続可能な地域をつくる
 第五章 ヨコ並びでない地域をつくる
 第六章 住民の意思で地域をつくる
 第七章 地域再生に向けて

 それぞれの内容が、具体的な地域の実例をあげながら説明されている。

 地域はそれぞれ異なる条件をもつ。だから地域を考えていくこと、地域の再生をすすめるということは、個性的な動きをしなければならないということだ。そしてその主体は、そこに住む住民でなければならない。

 ボクも、地域の仕事の一部分を担っているが、「上から」仕事が下ろされてくるので、いつも腹を立てている。地域をつくるということは、住民が自主的に考え、動いていくのでなければならない。地域住民を何らかの行政目的の手段とするようなあり方は、はっきりと排除しなければならない。

 人を、手段としてではなく、目的としなければならない。カントではないが、「各人がそれぞれ自律的な人格を手段ではなく目的として尊重する」なかでこそ、自立的・自律的な動きが可能になるのだ。

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変わらない

2013-01-24 09:06:25 | 日記
 変わるべきであるものが変わらないという現実がある。変わらなくてもいいと思っている人が多いからでもあるが。変わらないことによって何らかの利益を得る人がいるからでもある。

 部活動顧問の暴力が原因で生徒が自殺した事件の報道をみていると、議論されるべきことが議論されていないと思わざるをえない。何度も書いているが、高校の部活動のありかたが議論され、現在の部活動そのものが変革されない限り、この種の暴力はなくならないと思う。

 この顧問が 暴力をふるっていることは、生徒もまわりの教師も当然知っていたはずだ。もしこの事件が起きなければ、暴力を背景にした部活動がそのまま続けられていただろう。

 部活動と暴力は、「指導」という名の下に正当化されてきた。しかし、はたして部活動は教育活動の一貫としてその枠内におさまっているのだろうか。

 そんなことはない。部活動は今や教育活動ではなく、学校の名声をあげるための手段とされ、また顧問の「指導力」を示すためとなっている。つまり、部活動の生徒たちは、そのための手段と化しているのだ。

 それぞれの学校が力を入れている部活動に参加する生徒は、そうした目的の手段とされ、日常生活のほとんどを部活動に投入し、部活動一色の生活となっている。生徒たちも、そういう生活が当たり前だと思い、その生活こそがわが生活だと確信している。勉強や読書などは、彼らの関心の外だ。

 部活動で、根性が育てられた、礼儀やマナーを教えられたなどと、部活動に参加した生徒はいうが、その内実についてなんら検討されない。礼儀やマナーは、その部活動の中だけで完結している姿はしばしば見られることだ。部活動と関係ない他者に対して、礼儀やマナーは発揮されるのか。また根性というのは、「先輩」や顧問による理不尽な行動を我慢する精神ではないのか。

 今議論されるべきは、部活動を教育活動の枠内にとどめるにはどうしたらよいか、でなくてはならない。いきすぎた部活動が「勝利至上主義」を生み出し、だからこそ暴力という「指導」がまかり通るのである。

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【本】小田切徳美『農山村再生 「限界集落」問題を超えて』(岩波ブックレット)

2013-01-23 09:55:34 | 日記
 中山間地域の厳しい状況を指摘し、その現状をどう打開していくかを考えたものだ。

 私が住む、旧東海道が通る付近でも、高齢者世帯や高齢の一人世帯が増えている。中山間地域でみられた状況が徐々に平地にも忍び寄っている。

 「限界集落」とは、「65歳以上の人口が半数を超え、高齢化で集落の自治機能が急速に低下し、社会的共同生活の維持が困難にある集落」(大野晃)のことをいう。そういう集落は、中山間地域に増えている。岐阜県高山市に次いで広い面積を有する浜松市も例外ではない。その状況について、少し調べようとしている。

 中山間地域から人が減り始めたのは、高度経済成長期。当初は、都市などへの人口移動という社会減少であった。しかし今は社会減少ではなく、自然減少。高齢者が亡くなっていくことによる人口の縮小だ。

 そうなると、放棄された耕作地、空き家、荒廃する森林、不法投棄されたゴミが、いずれもとどまることなく増加する。

 その反面、東京への人口集中が激化する。大学を卒業した若者が、就職先を求めて東京へ行く。東京は豊かだ。給与所得者が集中し、都民税を納める。あるいは会社など法人も東京に集まり、税を納める。前石原都知事が、湯水の如く、都のカネを乱費しても、都財政はびくともしない、それほどの税収だ。

 ボクは、東京都に集まるカネは、地方に廻すべきだと。地方で育てられた子どもたちが東京で働いているのだ。東京都に納められた税金は、東京で費消されるべきという論理が主張されるが、その税金を納める人たちは地方で育てられたことを忘れるべきではない。
 
 今、中山間地域だけではなく、地方の中小都市も中山間地域にみられる現象が、出現している。これを「空洞化の里下り現象」というそうだ。地方で、人の空洞化、土地の空洞化(農業の担い手がいないから、耕作放棄地が増える)、そして集落機能が脆弱化する「むらの空洞化」が進む。

 「平成の大合併」により、中山間地の自治体がなくなり、広域化した自治体の政策対象から中山間地域が消える。中山間地域は、見えなくなっているのだ。いや、見えないのではなく、見ようとしない行政のあり方が指摘される。

 だが、全国各地で、そういう状態から抜け出ようと、自主的に住民たちが立ち上がる。そういう実例が、いくつかあげられる。

 この本は、厳しい状況を指摘しながらも、実例を示すことによって希望をもたせている。こういう希望をもたせる社会科学の本は、よい。

 中山間地域の荒廃は、平地に住む人びとにとっても、本当は看過できないことだ。自分は都市に住んでいるから関係ないと思ってはならない。都市に住む人びとが利用する水は、山からもたらされる。

 昔、均衡ある国土づくりが提唱されていた。しかし今は、地方の切り捨てだけが進む。

 村上春樹の作品は、都市の話が多い。中山間地域の小説はないのだろうか。


 
 
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【本】『村上春樹全作品1990~2000』3 短編集Ⅱ

2013-01-22 13:37:14 | 日記
 村上はいろいろな作品を書くことが出来る。なかなかの作家だ。

 今まで読んだ小説の主人公は、すべて男だった。この短編集で、はじめて女性の主人公のものにであった。

 この本に収録されている「緑色の獣」、「氷男」、「アイロンのある風景」、「タイランド」がそれだ。

 そしてこの作品集に特徴的なのは、阪神淡路大震災が記されていることだ。村上にとって、この地震は取り上げなければならなかった。もちろん直接的に作品に地震を描くのではなく、地震は背景として、しかしある種の規定性をもったものとして位置づけられている。

 「むくらやなぎと、眠る女」は読むのをやめた。以前読んだ作品集に収録されていたからだ。

 「かえるくん、東京を救う」は、人間の精神を重層的な構造として捉えようとしているように思えた。それは昨日読み終えた『世界の終わりと・・・』と共通する。一人の人間の精神構造を重層的なものとし、かつそれぞれの層が独自の世界をもち、同時に相互に関連するものとして捉えようとしているのかとも思う。この作品には、コンラッド、ドストエフスキー、トルストイ、ヘミングウェイがでてくる。いずれもボクが好む作家である。そういえば、「アイロンのある風景」には、ジャック・ロンドンがでていた。その「たき火」は読んだことがないので読んでみたいと思った。

 奇想天外な、あるいは荒唐無稽の題材ではない、通常の小説的な小説、たとえば「蜂蜜パイ」なんかは、面白かった。ボクは、この種の作品の方が素直で自然だと思う。『世界の終わりと・・・』なんかは、読んでいてこの部分は無理があると思うところがあった。

 村上作品には、時間の経過が書き込まれているように思う。その時間の経過は、人間を生まれさせ、そして生きさせ、最終的にはこの空間から消し去る、そういうものとしてあるようだ。

 次は『ノルウェイの森』を読むつもりだ、この作品だけ2度目となる。


 
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騒ぐな!!(その2)

2013-01-22 10:37:19 | 日記
 新聞を読んでいたら、桜宮高校の運動部の生徒らが記者会見をしたのだそうだ。

 橋下が「勝利至上主義」と指摘したことに対して、女生徒が「礼儀やマナーなど人として大切なことを学んできた」といったそうだ。だが「礼儀やマナーなど人として大切なこと」は、部活動だけで学ぶことではない。家庭や、部活動以外の学校生活、あるいは日常の生活のあらゆるところで学ぶべきことではないか。残念ながら、部活動のなかで教えられる礼儀やマナーは、多かれ少なかれ「タテ関係」にもとづくものだ。教師や「先輩」への服従など。

 高校の野球部などを見ていると、9時(もちろん夜)頃まで顧問などがいる正規の練習、そしてその後は自主的な練習が生徒だけで行われる。それが終わると、1年生は片付け。終わるのは11時過ぎだ。そして翌朝、1年生はかなり早く登校しグランド整備。それが「美風」とされているのではないか。

 部活動の子どもたちを見ていると、礼儀やマナーは「タテ関係」に貫かれる。その「タテ関係」も同じ部活動の中だけの礼儀であって、他に広がるわけではない。その部活動に無関係のとき、礼儀やマナーは捨て去られる。

 またその女生徒は、「大人たちから一方的に体育科を奪われ、部活動を奪われようとしている」とことばを詰まらせていたようだが、その生徒も含めて、部活動のありかたについて教師も含めて議論すべきではないのか。

 部活動のなかで教師による激しい暴力が行われていたのである。そういうあり方に教師や学校は言うまでもないが、生徒も一定「許容」していたのではないか。そういう事実を直視して、部活動について議論すべきなのだ。

 ボクは、学校、とくに高等学校で行われている部活動は「やり過ぎ」であると思っている。部活動は、学校の教育活動の一部分なのだ。

 残念ながら、部活動に専心する子どもたちの多くは、たとえば読書の喜びなど知ることのないまま、大人になっていく。子どもから大人への過渡期、とても重要な時期だと思う。その時期を部活動一色で塗り上げてよいものだろうか。
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騒ぐな!!

2013-01-22 10:00:32 | 日記
 桜宮高校の教師による暴力事件について、マスメディアで騒がれている。窃盗を「万引き」といったり、教師の暴力を「体罰」と言い換えるなど、使われる語によって本質がぼかされるので、教師による暴力事件としたほうがよい。

 教師の暴力によって自殺した生徒は気の毒だ。しかし死ぬほどのことであったなら、なぜ学校をやめるとかしなかったのかと思う。学校や部活動は、生死の問題と天秤にかけられるほどのものか。客観的に考えると、生死の問題からみると、学校や部活動は取るに足らない。だが自殺した生徒は、生死に関わるものとして認識していた。

 その認識を問題にすべきなのだ。その認識は間違いなのだから。

 なぜそういう認識を持つに至ったか。それは学校における部活動という、教育活動の一部分でしかないものが、実際は部活動が学校生活のほとんどを占めるという驚くべき現状があるのだ。

 授業は休憩時間。学校にいる時間はひたすら部活動に励む。それを大人たちは無責任に褒め称える。勉強なんかしなくてもいい、そのスポーツさえやっていれば。教師たちはその子どもたちが試合で勝利し、学校の名前、顧問の「名声」をあげてくれればそれでよいのだ。子どもも、幼い時からひたすらそのスポーツに励んできた。それ以外の世界は知らないから、一つのスポーツの世界に過度に入り込む。子どもにとって、そのスポーツが人生のほとんどを占める。

 そういう子どもを、たくさんつくりあげてきた。

 部活動を中心とした学校生活しかない子どもたちの問題として、考えていくべきではないか。そうした部活動中心の学校のありかたを議論すべきではないか。

 桜宮高校の入試がどうなるのかは、大阪で議論していればよい。全国に流されるべきニュースではない。

 なぜか橋下が無責任な放言をすればメディアは大騒ぎをする。メディアには見識がないからだ。バカ番組と見識のないニュースで、テレビはほとんど埋め尽くされている。テレビの視聴率が低下しているというが、そうなるべきである。

 実際入試中止の報道の中身をみると、スポーツ関連学科の入試はなくなるが、異なる普通科としての入試はスポーツ関連学科と同様のものが行われ、カリキュラムも普通科とはいいながらスポーツ中心のものになるという。実質的にはほとんどかわらない。スポーツ関連学科が、名前だけ普通科と変えただけだ。だから騒ぐな、といいたい。

 
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同窓会

2013-01-21 23:43:25 | 日記
 今日、同窓会をもち、そのなかでランチを食べた。場所は浜松駅南にある四川飯店。ここの料理は、よい食材をつかい、また味もまろやかで、口当たりの良い濃さで、ボクの舌にとてもあう。

 参会者も、異口同音にここの料理をほめていた。ボクはサービスに努めた。

 
 若い頃に一緒にいて、その後はバラバラとなり、そしてまた会う。会話は、昔の話、別々に歩いてきたそれぞれの歩み、そして現在の政治状況。

 「昔」はよかった。今は、いろいろな意味で不安だという。ボクもうなずく。「昔」、個性あふれる人びとがそこにはいた。しかし、亡くなった人もいる。

 集まり、別れて、また集まり、それでも結局最終的に別れていく。最終的な別れとは、決して会えないという別れだ。そういう別れが、だんだん増えていく。

 9人が集まり、5人がビールを飲み、1人が煙草を吸う。まだ余裕を持って生きている。

 「また会おう」ということばが交わされた。ボクは、ここでも幹事である。


 夜、雨が降り出した。一日が過ぎていく。今日は、村上の本は読まない。『世界の終わりと・・・』があまりに長すぎた。
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40という偶数

2013-01-20 22:08:41 | 日記
 この小説は、偶数でなければならない。なぜなら、「私」と「僕」が、一つになるためには同じ数でなければならないからだ。

 この小説は、とても長かった。しかし、「私」と「僕」のそれぞれの物語は、なかなかスリルがあってそれなりに面白かった。もちろん、博士の太った孫娘については、相当無理をしている、物語の進展のなかで次々と繰り出されてきて、まるで「後出しじゃんけん」のように出てくるのはどうもいけない。博士が逃げたところ、「私」と孫娘があとを追ってたどりついたところ、いやその経過も、どうも不自然。いや、物語そのものがすべて「自然」ではないから、それでいいのか。

 ボクは、途中から、種明かしをされなくても、この「私」と「僕」は同一人物で、その精神のなかが二重構造になっているのではないかと思い始めていた。

 そして「私」と「僕」が、最後に「私」が「僕」になり、「僕」が「私」になるのかと思った。つまり、「私」は厚い壁の世界に入り込み、「僕」は「影」と一緒に逃げて「私」になる、と。

 でもそうではなかった。結局「私」は「僕」と一体化してしまった。だが、「僕」が生きる世界は、「僕」=「私」自身がつくりだしたまったく想念の世界である。その世界の秩序の中に、ただ生きるだけの存在。そこには“疾風怒濤”がない。

 そこの住人は、「目的のない行為、進歩のない努力、どこにも辿りつかない歩行」(460)を生きている。

 村上の構想力は、しかしたいしたものだ。「私」と「僕」のそれぞれの世界、そして「私」が生きる現実世界と地底の世界、「組織」と「工場」との絡み合い、「私」と「僕」との相関、こういう物語の世界は、他の誰も構想できないだろう。なぜこういう構想が生み出されたのか。ボクは村上がこの作品について書いたものを一切読んでいないから、彼がいかなる意図でこの物語を構想したのかわからない。

 もちろん、この物語を読んで、それを考えろということなのだろうが、ボクは「???」というしかない。それぞれの文章それ自体はわかりやすく書かれているが、それらの文章の集積はまったく奇想天外の世界を創り上げている。

 この物語の中には、ボブ・ディラン、カザルス・・・・たくさんの音楽家が登場する。またドストエフスキー、バルザック、スタンダール、ツルゲーネフ・・・など世界文学の巨匠の作品が掲げられる。

 村上の作品はそうした作品を十二分に滋養としたうえでのものであることがよくわかる。

 そしてこの作品にも、ビールや煙草、そして女性、セックス・・・が出てくる。

 この小説は、偶数でなければならない。20と20があって、それが一つになる。

 『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』読了。
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The Rising

2013-01-19 10:22:45 | 日記
ブルース・スプリングスティーンのThe Risingが昨日到着した。これも日本語版ではない。どうせ解説なんか読まない。だから安い外国盤を買う。
 
 昨日、図書館に行って『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』を借りてきた。これはなかなか厚い。横になって読むには重すぎる。文庫版か何かを借りれば良かった。ついでに『ノルウェイの森』も借りた。ボクの書庫のどこかにあるのだろうが、探すのが面倒なので借りた。こちらはそんなにも厚くはない。これでは一日一冊というわけにはいかないようだ。それが分かったとたん、他の本に眼が移る。

 「ザ・ライジング」は、村上がスプリングスティーンのなかでもお勧めのようなので購入した。強く訴えるような曲はないようだ。

 you tubeには、スプリングスティーンの曲がたくさんアップされている。CDなんか買う必要はないみたいだ。

 スプリングスティーンを聴きながら、村上を読もう。
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注意

2013-01-18 19:25:57 | 日記
 携帯電話にEメールが入っていた。知らないところからだ。そこにはこう記されていた。

 突然ご連絡申し上げて申し訳ありません。

 あなたがよくご存じの、ある方の紹介で、ご連絡させて頂いております。

 その方にご迷惑がかかるため、今はまだ名前をお伝え出来ないことをお許しください。

 私は某芸能事務所にてマネージャー業務を行っております。

 今担当しているのは国民的とも言える、多分皆さんご存知のタレントです。

 ここ最近本人が雑誌やテレビでの取材、番宣目的での番組出演などで非常に疲れており、精神的に病んでしまっているようなのです。

 今回突然ご連絡をさせて頂いたのは、タレント本人の希望でどうしてもあなたとお話したいとの事です。

 当然本来こんなことはNGですし、押しつけがましいお願いになってしまうのは重々承知ではございますが、本人が少しでも元気になってくれるならばと思い、あなたにご相談に乗って頂ければ、とご連絡させて頂きました。

 私が今連絡をとっている携帯ですが、事務所に厳重に管理されているため、この事ががばれてしまうとマネージャーとして大問題になってしまいますので、私の携帯に直接ご連絡頂ければと思います。お手数をお掛けして申し訳御座いませんが、お話だけでも聞いて頂けないでしょうか?

 (メールアドレス)

 ご連絡、お待ち申し上げております。  ○○(女性名)


 ボクは携帯をかなり早期に持ち始めたので、メールアドレスがあんがい簡単だから、こういうメールを送りつけられたのだろう。

 この文、個人ではなく、不特定多数に送っていることが文面からもわかる。「あなた」で通しているならまだしも、「多分皆さんご存知のタレント」と書かれているが、ここは「多分あなたもご存知の」にしなければならない。

 この手の「詐欺」は、すでにメディアで報道されていて、連絡したあとにカネを貸せとか何とか言われて大金をだましとられた人がいるようだ。もちろん、ボクはタレントなんかに知り合いはいないし、知り合いたいとも思わない。

 皆さん、注意しよう!!

 
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ランチ

2013-01-18 15:40:24 | 日記
 今日、浜名湖西岸の見晴らしの良いレストランで昼食をとった。そこは少し高台にあり、浜名湖が遠望できるところだった。今日はとても空気が冷たく、風が強い。浜名湖の湖水も、強い風に煽られ、盛んに波を立てていた。

 ボクらがランチを食べるには、いささか不似合いのところだった。村上春樹のように、女性と二人きりで浜名湖を遠望しながらフルコースのフランス料理を食するとよいのだが、ボクたちは中年以上の人たちの集まり。別の客のなかにも、若い人はいなかった。

 スタッフに聞いたところ、1月は少ないが、通常は結婚式で若い人たちが集まるとのこと。となると、今日、このレストランは、場違いのところと化したわけだ。

 ボクたちは、ランチを食べながら、深刻な話をした。主に、福祉に関する話題だ。

 よくよくみると、ボクたちの周辺には、生活に困難を抱えている人があんがいたくさんいる。だが、日常生活をフツーに送っていると、そういう姿が見えない。

 困難を抱えている人びとの生活を聞きながら、あと10年経つと、その人たちはどうなるのだろうかと思ってしまう。

 本当は、ボクらが生きている時、10年くらいの先の見通しをもって生きて行ければいいのだが、困難に直面している人びとには、それは無理である。いや困難に直面していなくても、日々の生活を生きていくことはなかなかたいへんな時代になっている。

 多くの人は、日々生きている中で、突然困難に直面し、そのときになってはじめて慌てる。本当は、そういうときにあわてないように、行政がすぐに援助の手をさしのべればよいのだが、それができない。最近行政は、市民生活と直結するところは、ほとんど外注に出すようになっているからだ。行政の効率化、経費の削減ということばがそれを促進する。

 ボクたちは、浜名湖を見ながらそういうことを話し合った。

 大きな窓からは、浜名湖とその周辺の山々、そしてとても青い空が見えた。だが、そこには冷たい風が吹きつけていた。

 
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【本】『村上春樹全作品1979~1989』3 短編集Ⅰ

2013-01-17 17:46:54 | 日記
 村上作品によく出てくる語。

 煙草 ビール 「疲れた」 「ガールフレンド」 「セックス」

 主人公はよく煙草を吸い、ビールをよく飲む。ボクは煙草も吸わないし、酒も飲まない。だから作品中に煙草やビールがでてくると気になるのだ。

 また主人公は、よく「疲れた」という。

 主人公には、妻のこともあるけれど、妻ではない女性が登場し、しばしばセックスを行う。

 村上作品には、突拍子もない奇想天外の作品と、きわめて小説的なものとがある。たとえば、「中国行きのスロウ・ボート」、「午後の最後の芝生」、「土の中の彼女の小さな犬」、「蛍」などは後者である。「貧乏な叔母さんの話」、「踊る小人」、「シドニーのグリーン・ストリート」などが前者だ。

 『羊をめぐる冒険』は、その二つを統合したものだ。

 それでボクは思ったのだが、村上はいくつかの場面(その場面は、脈絡がなくても良い。あるいは時間も場所も連関しなくても良い。とにかくバラバラの場面)をあらかじめ設定して、それらをつないでいくという手法をとっているのではないか。これはまったくふっと浮かんだことで、根拠はないから当然間違っているだろう。

 まあこの本に収録されている作品については、コメントしなくてもよいだろう。

 
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電話・過疎

2013-01-17 11:48:09 | 日記
 村上春樹の短編集1(1979~1989)を読んでいたら、電話があった。浜松市の過疎について調査したいという内容だった。そしてボクへの協力が求められた。ボクは早速読むべき本を浜松市図書館の目録から選び出して、借りる手はずを整えた。そして浜松市が出しているいろいろな資料を集めてもらうことも依頼した。

 1月末までに、それに関する資料を読みこなさなければならない。となると、村上作品を集中して読むわけにはいかなくなる。それに並行して、ボクは『大杉栄 自由への疾走』(鎌田慧 岩波現代文庫)も読んでいる。なかなか忙しい。

 過疎について書いたものがある。能登半島に行った時のことを書いたものだが、もうかなり以前のこと。もう一度能登には行ってみたいと思っている。おそらく過疎はもっと進んでいることだろう。


 過疎地帯ー奥能登ー

 奥能登の冬は寒い。暗い。わびしい。日本海から吹き寄せる潮風が、山裾の草木を枯らし、荒涼たる姿を現出させる。そしてどんよりとした厚い雲の下で冬の海が荒れる。
 
 ほとんど人影は見えない。時折道のスミを手ぬぐいを被った老婆が、腰を斜めに曲げながら歩いている。それ以外の人には会わない。人家はあった。車もあった。しかし人はいない。コンクリート・ミキサー車が自らの巨体をゆっくりと廻していた。しかし人はいない。ー見捨てられた家、そして車。

 大通りを車がひっきりなしに行き来し、たくさんの人が蠢きあっている「大都市」の生活に慣れた人の眼に、奥能登は異様に、あたかもゴーストタウンのように映る。

 過疎ー。このことばが奥能登を象徴する。全国の山間僻地の状況がここにもある。若者たちは都市に出て行く。の男たちも農閑期には「出稼ぎ」に行く。厳しい冬の中、残された人びとは孤立に耐える。そのように生きてきたし、また生きねばならない。

 過疎ーこれは単に人口の減少ではない。現代に特徴的なきわめて深刻な社会現象なのだ。過疎は「人口減少のために一定の生活水準の維持が困難になり、それとともに資源の合理的利用が困難になって、地域の生産機能が著しく低下し、こうして人口密度が低下し、さらに年齢構成の老齢化が進み、従来の生活パターンの維持が困難になった状態」と、経済審議会地域部会の『中間報告』は定義する。しかし、過疎は進行する。過疎が過疎を呼ぶ。なぜ?

 冬が過ぎ、雪がとけると、奥能登に若者が来る。都会の若者たちだ。奥能登の人びとは忙しくなる。だが、奥能登から出て行った若者は帰ってこない。仕方がない、と奥能登の人びとは考えるのだろうか。


 過疎化は、限界集落を山間僻地に増殖し、とどまることを知らない。人が去り、家屋が倒壊し、子どもたちが遊び、また生業の場であった庭にも、樹木が侵蝕し、人が近付けないところとなりつつある。

 現在の政治社会は、こうした地域を再び「復興」させる手立てを持たない。山間僻地から人が消え、そしておそらく町からも人は消えていく。町で見かけるのは、老人ばかり。あと30年経ったら、町もゴーストタウン化するのかもしれない。

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Wrecking Ball

2013-01-16 23:14:04 | 日記
今日、ブルース・スプリングスティーンの Wrecking Ball が届いた。アマゾンで、1000円もしなかった。日本語版ではないので、聴きながら歌詞を確かめていった。もちろん知らない単語もあったから、全部はとても理解できない。でも、彼は精一杯訴えていることがわかった。

 追々、このWrecking Ballに収録されている曲を訳していきたいと思う。

 日本のミュージシャンで、粘り強くこういう「うた」を歌い続けている者はほとんどいない。アメリカには、そういう伝統があるようだ。

 日本もそういう「うた」が、かつてあったし、またそういう「うた」を歌う機会もかつてあった。だが今は、どこかに消えてしまっている。どこからか、そういう「うた」が聞こえてくることはあるだろうか。

 明日には、The Risingが届くだろう。

 一つの入口から、複数の入口が開かれ、それらがボクを誘う。その誘いに、ボクはついていこうと思う。総選挙後の今の時期は、静かにエネルギーを蓄えるのだ。
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【本】村上春樹『意味がなければスイングはない』(文藝春秋)

2013-01-16 10:39:23 | 日記
 この本はまだ読み終えていない。おそらく全部は読まない。だからここでは備忘録として書いていきたい。
 
 ボクはクラシック音楽が好きだ。こうしてブログを書く時にも、音楽を聴きながら書いている。今はショパンのピアノ協奏曲第二番だ。何かを書く時、音楽を聴きながら、音楽の力を借りる。哀しいことを書きたい時には、ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番第二楽章を聴く。文は、その音楽に影響されていく。だからボクの歴史は、少し情緒的だ。だって、涙を流しながら書く時だってあるのだから。例えば、無意味な死を強制された戦争について書いたところ、亡くなったその人びとの悔しさを文にこめなければならなかったのだ。その時、音楽はボクの意思をさらに高めてくれるはずだ。

 この本に書かれている作曲家や演奏者の音楽をすべて聴こうとは思わない。ボクはジャズはほとんど聴かない。読んでいても、あまり関心を抱かない。

 ただ、ブルース・スプリングスティーンには関心を持った。何年も前に、ボクはひそかにスプリングスティーンの曲を聴いていたことがある。そのスプリングスティーンについて、村上が書いている。村上がスプリングスティーンに関心を持っていることが嬉しい。

 スプリングスティーンは、現実に疑いや怒りを持ち、それをうたにしている。かつてその姿に心を動かされ、ボクはCDを購入し聴いていた。でも、いつのまにかボクはスプリングスティーンを忘れていた。ボクの子どもは、ボクがスプリングスティーンを聴いていたとき、興味をもったらしく、今も聴いているようだ。スプリングスティーンのCDはないかと尋ねられることもある。

 そして今、村上に、もう一度聴いてみなさいと言われている気がする。

 村上は、アメリカの作家、レイモンド・カーヴァーについても書いている。ボクはその作家を知らなかった。そのスタンスは、スプリングスティーンと同じのようだ。彼はアメリカの民衆の姿(村上は「ワーキング・クラス」と表現しているが)を書いているという。ボクは、「民衆」ということばが好きなのだ。もちろんそれが「ワーキング・クラス」であってもだ。レイモンド・カーヴァーは、徹底したリアリティで表現しているという。

 この二人の共通性にも言及している。二人は、「物語の開放性」を意識的に採用しているという。「彼らは物語の展開を具象的にありありと提示はするけれど、お仕着せの結論や解決を押しつけることはない。そこにあるリアルな感触と、生々しい光景と、激しい息づかいを読者=聴衆に与えはするが、物語そのものはある程度開いたままの状態で終えてしまう」(125頁)。そして「読者=聴衆はその切り取られた物語とともにあとに残され、その意味について考え込むことになる」(126頁)。村上の作品と通じる指摘でもある。

 ここに記されていることは、村上作品を理解する参考にもなる指摘である。「閉じることのない物語というシステムを通して、率直に謙虚に、我々の内なるbreaknessを暴くこと。」(126頁)

 ボクは、レイモンド・カーヴァーの作品を読む必然性をもった。

 この本に記されている他の音楽で関心を抱いたのは、シューベルトのピアノソナタ17番について。確かに聴いたことはない。そして「スガシカオ」。これも全く知らなかった。

 知らない世界を知ることは、素晴らしいことだ。知らない世界を教えてくれるその入口は、ほんとうにたくさんある。ボクたちは、狭い世界に生きているのだ。

【追記】今読み終えた。おもしろい本だった。ウディー・ガスリーの記述もよかった。またスプリングスティーンやウディー・ガスリーなどの記述の中に、村上の志めいたものもあって、参考になった。

 「コミュニズムの歴史からの退場によって、左翼という概念は我々の社会から事実上消滅してしまったし、社会の急速な複雑化・重層化に従って、抑圧とは何か、懐旧とはなにかというような基本的な定義さえかなり曖昧模糊としたものになってしまっている。しかしガスリーが一貫して持ち続けた、虐げられた人びとのための社会的公正を獲得しようとする意志は、そしてそれを支えたナイーブなまでの理想主義は、多くの志あるミュージシャンによって継承され、今日でもまだ頑固に(中略)その力を維持し続けている。」(271頁)

 このような志を正当に評価する村上を、ボクも評価する。しかし日本のミュージシャンで、そういう人は何人いるのか。沢田研二くらいか・・?

 ブライアン・ウィルソン、ゼルキン・ルービンシュタインの比較も面白かった。村上が腰を据えていろいろ調べて書いたことがよくわかる。村上は、もちろん文才は当然として、努力の人でもあることがわかる。





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