校庭やゴルフ場をサツマイモ畑にするという案が本気で議論されているようだ。1940年代の戦時下、校庭でサツマイモを栽培した。
またそれが繰り返されるのか。こんなことを考える統一教会党=自民党政権の施策を支持するなんてここでも私は呆れてしまう。
校庭やゴルフ場をサツマイモ畑にするという案が本気で議論されているようだ。1940年代の戦時下、校庭でサツマイモを栽培した。
またそれが繰り返されるのか。こんなことを考える統一教会党=自民党政権の施策を支持するなんてここでも私は呆れてしまう。
健康保険証をなくしマイナ保険証を強制するという政策。国民一人一人を監視するために始めた国民総背番号制、その流れとしてのマイナンバーカードであるが、多くの人がつくらないので、統一教会党である自由民主党と官僚たちが結託して、2万ポイントをぶらさげたら、国民はつくるのではないかと思ったのだろう、実際77%の人がマイナンバーカードをつくったようだ。
しかし私はつくらない。私はまつろわぬ(従わない)民だ。マイナ保険証をもたずに医療を受けると余分なカネを払わなければならないようだが、しかしそんな差別的な政策が行われようと、私の「まつろわぬ」精神は変わらない。私はつくらない。健康保険証のかわりになるものが発行されるなら、それを使おう。
報道によると、いろいろマイナンバーカードに関して問題が発生しているようだ。いずれこれも挫折するだろう。なぜなら、このカード5年たったら新規につくりなおさないといけないようだ。5年後、また役所に人々が殺到するだろう。
マイナンバーカードをつくれば2万ポイントがつくという報道がなされたら、人々は役所に殺到した。2万円の餌が、そんなに欲しいのか。日本国民のさもしい根性に、私はある意味で呆れた一人だ。
今日は演劇鑑賞の日。自転車で会場へ。そこは交通が不便なところなので、30分かけて自転車で行った。ホールの駐輪場は、西側にある。そこに自転車を止めようとしたら、劇団の方々が5~6人、激しく喫煙中。私はたばこの煙が嫌いなので、あわてて自転車に施錠して会場へ。
約2時間、休憩なしの舞台。なかなか面白かった。
家賃の安いシェアハウスにはいろいろな人が住む。技能実習生として中国から来た女性(王晴)、職場は新潟だったけれどもそこから離れ、今はラブホテルの夜間従業員として働く。したがって、「不法残留」となるが、ハウスの女性オーナーは人権擁護団体ともかかわっていてその関係から住まわせていた。現在入管法の改悪案が問題になっているが、低賃金で外国人労働力を酷使するという技能実習生の姿が舞台上で露わになる。
32歳の女性、15歳の子どもと離れて夜の仕事につく。どこかに消えた亭主の借金を抱えて隠れるようにしてここに住む。悪徳借金業者を気にしながら生きる。
東日本大震災で婚約者を失った女性、ぼーっと生きてきたが一冊の本を読んで生きなおそうと上京してここに住む。
オーナーの甥の小池一男、働かずに住人との交流もせずにシェアハウスに住む。
劇団員の若い男性・玉田幸平、新しい入居者だ。明るく積極的だが、親との確執をもつ。
ハウスをシェアする住人たちは、オーナーの喜代子(この人は語られはするがずっと入院中で、突然亡くなってしまう。とても良い人で、家賃は安く、虐げられている人を住まわせる。住人との交流がなによりも好きな人)。
住人と、オーナーの喜代子との関係は、ヨコの関係。住居をシェアするだけではなく、生活をもシェアする。仲間だ。助け合う、支えあう、そういう関係である。
さてもう一つの関係がある。タテの関係。父子関係である。これがなかなか大変だ。父親はみずからの価値観を子ども、とりわけ長男に押し付ける。
オーナーの甥は医学部を卒業、親が医院をやっている。親の言うがままに生きてきたが、脱落。医者にならずに小説を一本だけ書いた、しかしほとんど知られていない。
オーナーの喜代子の夫、税理士・春山秀夫も同じ。息子を税理士にしたかったのだが、息子は飲食店を経営。父親による押し付けを拒否した息子・春山隆志。
もう一人、劇団員の玉田も、親の言いなりにならずに劇に打ち込む。
ヨコの関係、シェアしあう関係にくさびを打ち込むタテ関係としての父子関係。
この劇は、それぞれが厳しい現実を必死に生きている人びとが共鳴しあい、それぞれの生を支えあうという関係と、父の価値観を押し付けられる息子たちというタテの関係、そのふたつが織りなす人生のドラマである。結局、父たちはシェア(共有)の価値観にのまれていく。そしてハッピーエンド。
このシェアハウスの名は、「トゥルペンハウス」、チューリップの家という意味だそうだ。チューリップの花言葉は「思いやり」だという。
一緒に住まう者たちが、「思いやり」をもって生活をシェアする、そうすればそこには軋轢も葛藤もなくなるだろう、というのが主張である。自己責任や人びとを分断させるイデオロギーがはびこっているこの日本社会に対するある種の「批判」「抗議」であるとみた。
人生ドラマとしての「シェアの法則」。笑いと豊かな感情を喚起させる劇であった。終演後の拍手の音は大きく響いた。
近所の娘さん、ワクチン一回目を受けた後高熱が続いた。二回目を受けた後は、喘息のような咳が出るようになった。今まで喘息になったことはないのに、原因はワクチンしか考えられないという。ワクチンをうった町医者は、「ワクチン後遺症ではないと思う」といったらしいが、娘さんや家族は、ワクチンが原因だと判断している。娘さんは、数か月に一度、大きな病院に行ってみてもらっているという。
私は、ワクチンは二回しかうっていない。ワクチンによる様々な後遺症が、残念ながらマスメディアではなく、SNSなどによって伝えられてくるなかで、これ以上はうたないようにしようと考えた。国民の生活を軽視し、国民の生活を様々な方法(たとえばマイナ保険証)で圧迫してくる自民党・公明党政権が、国民を新型コロナから守ろうとしてワクチン接種を国民にすすめるなんてことはあり得ない。ワクチンは、自民党・公明党政権がアメリカの兵器を爆買いすることと同様に、アメリカにカネを渡すための手段ではないのか。自民党・公明党政権は、徹頭徹尾、利権につながらないことをしない。それはすでに証明されている。
仮に、この悪徳政権が、新型コロナから国民を守るためにワクチン接種をすすめていたなら、後遺症がでてきたときにそれを即座に認めて、何らかの対応をするはずだ。しかし、そうではない。
ワクチン後遺症について報じているのは、名古屋のCBCテレビ(大石解説)だけだ。私はかなり前からCBCを、YouTubeチャンネルでみているが、孤立無援のCBCの報道姿勢は高く評価したい。
長野県中野市で、警察官2名を含む4人が殺されるという事件が起きた。容疑者は、中野市議会議長の長男だとのこと。殺された方々はまことに気の毒で、ご冥福を祈るしかない。
このような事件が起きるとき、もちろん殺された方やその家族親族の悲しみや怒りは計り知れないことだと思うが、犯行を犯した者の家族も今後大きな悲しみの中に生きることになるだろう。
被害者の家族はいうまでもないが、加害者の家族らの心痛は、いかばかりかと思う。
先日も東京で、中学校の教員が殺人事件を起こしたとことで逮捕されたが、その教員には奥さんや子どももいるという。その家族はとても今までの生活はできなくなるだろう。犯罪を起こしたものには、当然その刑事責任が追及されなければならないが、加害者家族の受ける衝撃は回復不能となる。
こういう事件がなぜ起きるのか、その背景をしっかりと解明して、同じような事件が起きないようにすることも、社会の安定につながると思う。犯罪は、社会的な背景から考えていくべきものであると思う。
さて、岸田首相のボンクラ息子が、首相官邸で宴会を開いて批判されている。それに対して、岸田首相は、「国民のみなさんの不審を買うようなことであるならば、これはまことに遺憾なことであると思っております」と記者会見で語った。この「国民のみなさんの不審を買うようなことであるならば」は不要である。批判されるべき行為であるのは、明らかである。岸田首相は、息子が関わる事案が、批判されるのは当たり前だと思っていないから、こういう発言をするのだろう。首相は、こうした事案について、主体的にその良し悪しについて判断できないのだ。「国民のみなさんの不審を買うようなことで」なかったら、反省もしないのだろう。
こういう人物を首相にしている日本国民は、彼によってなめられている。
社会も崩壊の一途をたどっているように思う。
日曜日の、NHKの日曜討論は、NHKの本質を象徴する番組である。とにかく討論の展開が、政権与党に有利なように、有利なようにと展開する。こんなNHKに受信料を払うだなんて、まったくナンセンスである。
さて先日のその番組で、NHKのシナリオを震撼させた発言があったようだ。大臣その他をやりこめた女性研究者がいたという。岩本奈々さんである。しかしNHKは、彼女を二度とは出演させないだろう。
日本の政治は、自民党国会議員の2世、3世がはびこっている。政治家の子弟は、経済的に豊かで、周囲からもちやほやされ、悩みもなく、凡庸に育ってきている。そういう輩が親や親族の後継として立候補し、政治家になる。
私は、そういう人物を政治家として送っている選挙民にまず怒りを感じる。何も考えずに、有力者としての政治家に従っていれば、投票していれば、それでよしとしている。そういう選挙民が、日本の政治の崩壊に手を貸している。さきの山口県の補欠選挙で当選した岸某なんて、なんの考えもないのに、ただ政治家の息子だからということだけで政治家になる。彼が頼るところは、ただ政治家の家系に生まれたということだけだ。しかしそれを評価して投票する選挙民も選挙民である。
そして岸田の息子、あほとしか言いようがない。そんな者でも、親としての岸田は息子を擁護する。親ばかとしか言いようがない。ただ総理大臣になりたいという希望だけをもっていて、どんな政治をするのかという定見もない輩が、官僚やアメリカのいいなりになって、軍備増強に走り、国民の生活を破壊する。
そのあほな政治家の血統の者たちが、首相官邸で酒盛りをする。もう呆れかえるしかない。それでも広島の選挙民は、岸田を当選させ続けるのか。させ続けるのだろうな、とにかく自民党や公明党の政治家とくっつけば利権がついてくるからだ。
長い間、自民党が権力を握ってきたから、自民党政治家と業界とは利権で結びついている。既得権を守ることだけが政治の要諦となっているために、日本では世界から注目される産業が成長しない。
日本の政治も崩壊へと進んでいるが、日本国全体も崩壊へと向かっている。
ユーチューブで、「岡林信康10 Songs - 史上最高の曲のセレクション」を発見した。久しぶりに、岡林のうたを聴いた。私は岡林のレコードを今ももっている。ただ、レコードを聴くプレーヤーがないので聴くことはできない。
私は、高校生の時、岡林の「友よ」が好きだった。若い頃いろいろなことをやっていたが、この曲に励まされ生きていたように思う。
長女が生まれたとき、私は「ともよ」と名づけた。しかし娘は、親の望みとはまったく異なる生き方をしている。これも仕方がないことだ。
今、「夜明けは」来るのだろうかという時代に生きているが、若い頃は自分自身が主体的に動けば時代は動くという気持ちをもっていた。
親の世代に、「何であんたたちは戦争を阻止できなかったのか」と問うていた自分自身が、今度は問われてしまう事態となっている。
ヒロシマ・サミットは、戦争の前触れのようなものになっているように思えてしまう。
大手企業の賃金が4%ちかく上昇したという記事を見た。はたして中小企業の労働者の賃金はどうだろうか。年金生活者の年金は、下がるばかりだから、購買意欲を持つことさえできない。
さて、貧困に打ち沈んでいる日本国民の多くは、モノを買えない状況がある。スーパーに行っても、ほとんどすべての価格がアップして、しばらく前とは全然異なり、日常生活にとって必須の食料品や日用品だけでも出費が多くなった。
さて、景気の良い中国の人たちはどうなのだろう。日本に来る中国の人々は、日本の家電などを「爆買い」していったということが、かつて報じられたが、今はそういう報道がない。
こういう記事をみつけた。なるほどである。
『週刊金曜日』5月19日号、「土地の記憶」という写真が並んでいる。成田空港の拡張工事により、農家の建物、農地、里山の樹木・・・そこに住んでいた人々の生活それ自身が破壊される。同時に、長い間かけて蓄積されてきたそこに住まう人々の記憶が消されていく。それらを示す写真が、モノクロで掲載されている。
日本の資本主義は、ほんとうに残酷であると思う。農業だけでは食えなくさせて農業後継者を農村から放逐し、跡継ぎのいなくなった土地を奪い取る。そしてそれをカネに変えていくのだ。
「開発」とかいうことばは、決してよい言葉ではない。「開発」と表裏一体で、必ず「破壊」がある。その「破壊」とは、人間の生活の「破壊」であり、そこに刻まれてきた歴史の「破壊」でもある。
そして「破壊」された土地の所有者には、わずかなカネが支払われる。
日本全体が、「破壊」列島となっている。もっとカネがもうからないか、もっとカネがもうからないかと、神宮外苑を「開発」するという名のもとに、歴史的につくられてきた環境を「破壊」し、巨大なビルを建ててカネをもうけようと、東京都や三井不動産、明治神宮、伊藤忠が強引に事業を推進しようとしている。多くの反対の声を無視して、東京都はいかさまな審議会をつくって「開発」にお墨付きを与えようとしている。
日本という国は、末期資本主義(正当な経済活動ではカネがもうからなくなっている)の様相を呈し、「破壊」を推し進めることによりさらなるカネもうけに邁進している。
日本には、もう未来はない、という感慨を強くしている。カネの亡者だけが住まうことができる国へと変身しようとしている。
NHKは報道の資格はない。東京オリンピック報道で捏造を行ったNHKがまたもや捏造。しかしNHKは、「誤解を与えた」などと隠蔽。
今日の『東京新聞』、「ネットで何が」のコラムで中川淳一郎さんが書いている。そのコラムではないが、こういう事件である。
ワクチン接種で家族をなくした遺族の取材をしたのに、その遺族がコロナで家族をなくしたかのような報じ方をしたのである。
立憲民主党の泉執行部は、立憲民主党を野党ならぬ「ゆ党」へと導く役割を果たすために存在している。今のままで、単独で衆院選で150議席を獲得できるわけがない。
鮫島浩氏が、立憲民主党は解体して、野党(この場合、日本共産党とれいわ)と共闘して、自公維国民と対峙できる政策を掲げたほうがよい、と言っている。私もそう思う。
現在の泉執行部体制に対して、立憲内部から強い批判が聞こえてこないも不思議だと、私は思っている。もし立憲の議員たちが、ふらふらする泉執行部体制をおかしいと感じていないのなら、もう立憲民主党は終わりということだ。