思春期の頃から、人間とは何か、ということについていろいろ考えてきて、一定の結論がでたのだが、しかし近年の有様をみていると、私の人間観が動揺しているのを感じる。
私はTwitterはやらないが、ほかの人のTwitterは見ることがある。そうすると、『朝日新聞』記事を紹介していることが、あんがいたくさんある。しかしそれは記者自身が書いたものではなく、いわゆる識者とよばれるその道のある意味での専門家が書いたものだ。
しかしこの手法は、『朝日新聞』がずっと前からやってきたことだ。『朝日新聞』はリベラル紙ということで、リベラル層の購読者に媚びを売らねばならない。しかし、記者などが自社の記事で書くのではなく、識者に書かせて、ほら当社はこういう記事も載せるんだぞ、という手法を採用している。卑怯なのである。社全体としては、すでに統一教会党である自民党と創価学会党の公明党による政権にすりよっていることは、政治部記者が書く記事を読めば一目瞭然である。
テレビについては、見ていないので言及は避けたいが、おそらく広末なんとかの「不倫」をワーワーと騒いでいるのであろう。報じなければならないことを報じないメディア。広末なんとかの「不倫」なんて、国家社会には何の関係もないことだ。それでもテレビを見続けている方々は、ほんとうにテレビから離れた方がよいと忠告したい。
自衛隊のセクハラ問題で頑張っている五ノ井さんもそう書いている。
昨日の『東京新聞』、日曜特集は「子どもの貧困はいま」である。そこに「物価上昇で家計苦しく」というグラフがあり、「物価上昇を実感している項目」として、トップには「食費」があげられていた。
我が家の買い物は私がやっているが、スーパーでの食品の値上がりはすさまじいものがある。卵はしばしば報じられるが、それ以外のものの値上がりも激しい。あるものは少し高くなったなあと思っていたら、さらに上昇している、ということが何度もある。買い物袋には専用の財布があり、その財布のお金が無くなったら一万円札を補充するということをしているが、その頻度が増している。すぐにお金はなくなるのだ。
政治家諸君は、スーパーに買い物には行かないだろうから実感はないのだろうが、食品の値上がりのスピードは早い。
中部電力管内であるので、電気代の急激な上昇は感じていない。またガス代も、以前は都市ガスだったが、私の居住地を管轄している企業がうるさく給湯器の買い替えを求めてきたので、その際にプロパンに変えてしまった。すると、ほぼ毎月1000円以上安くなっている。都市ガスからプロパンに変える場合、価格がアップするのが普通だそうだが、我が家は下がっている。
いずれにしても、食品の物価上昇は予想をはるかに超える。収入は増えずに、支出だけが大幅に増えている。統一教会党である自民党は、一般庶民を苦しめること、他方で利権につながる会社や個人に国家財政から大盤振る舞いをすることを仕事としている。
いったいいつ、彼らが権力から追放されるのか。少しでも利権につながりたい庶民は、利権政治と手を切るという選択はしないのか。マイナポイントも、利権の一つであるが、それにたくさんの庶民が群がったなあ・・・・・
自分自身とは異なる者がいるということ、そうした存在の尊厳を尊重することは、とても重要なことだ。私は男性として生まれ、みずからを男性だと認識しているが、そうでない存在もいる。性の多様性は、人間存在の多様性として認めなければならない。ましてや、そうした存在を差別するなんてことはもってのほかである。それぞれがそれぞれを尊重すること、これに尽きるわけだが、なぜか日本では、そうしたことが実現されない。
LGBT法に関して、それを換骨奪胎したい勢力、あるいは反対する人びとによる、ウソを前面に掲げたキャンペーンが繰り広げられた。それはなんと国会でも、である。人一倍人権に関して敏感でなければならない人、人権擁護に邁進しなければならない立場にいる者が、どこかの宗教団体と符節を合わせて、法案とは無関係の虚偽を前面に押し立てて法案をつぶしにかかっていた。
そしてそれに呼応するかのように、ウソとデマが書かれたチラシがまかれた。
残念ながら、今の日本の政治は、ヘイトや差別を肯定する人によって担われているようだ。そういう人に投票する人びとは、いったい何を思っているのだろうか。
私が『東京新聞』を購読していることは何度も書いてきた。他紙を購読している人から、『朝日新聞』を含めて、こんな記事があった、あんな記事があった等々という声を聴く。
齢を重ねた人にとって、ストレスを避けることがもっとも肝要である。新聞を読んでいてストレスを嵩じているなんてサマにならない。それならいっそのこと、『東京新聞』にしたら、と私は思う。『東京新聞』を読んでいてストレスは生じない。
『東京新聞』って、こういう新聞。ジャーナリズム精神がたくさんある。
<ぎろんの森>問題放置という責任放棄
『週刊金曜日』の巻頭にある「風速計」。田中優子さんが「売春禁止法をめざそう」を書いている。
「まだ売春を「自由な職業選択」として支持する人々がいる。」と。
田中さんは江戸時代の文化の研究者、遊郭についても研究してきた。遊郭の研究の中で、いわゆる遊女と呼ばれる女性の「命を削る」姿を見てきた。
そこで、
「若ければ高い値がつきその後は値段が落ちるだけで、将来の可能性を伸ばす余地などない。絶えず病気と暴力の危機に晒され何の保障も受けられない。それは職業とは言えない。女性たちをこれ以上、そこに追いやってはならない。」
と書く。
私も同感である。売春という「職業」はあってはならないと思う。田中さんの主張に賛成である。
2023年は、関東大震災100年である。9月に向けて、関東地方を中心にそれに関する催し物も増えることだろう。
『週刊金曜日』は、関東大震災を連続で取り上げるとのこと。最初の第1回は、事実が集積しているのに、それを強引に消し去ろうという歴史否定の愚者たちに対する、貴重な証拠としての朝鮮人虐殺を描いた絵を示す。
凄い絵である。絵は表紙にも使われている。新井勝紘氏の文は、その絵の発見までの経緯が記され、具体的にどのような場面が描かれているかを記す。迫力ある絵と、そして文である。
愼蒼宇の「朝鮮独立運動への弾圧が導いた虐殺」という語りをまとめたものに、「日清戦争以降の官民一体の「暴徒討伐」戦争の延長線上に関東大震災時の朝鮮人虐殺が位置づけられる」という指摘に、私は同意する。その「戦争」に、大日本帝国臣民は動員され、そして戦った。その記憶は、かれらの心身に刻まれ、1923年9月に首都圏で出現したのだ。
ひろたまさきさんは、2020年6月17日に亡くなられた。ひろたさんとは、メールや手紙をやりとりしていたが、この頃は止んでいた。手紙は、ワープロで印刷したものもあったが、ほとんどは絵ハガキに、そこには小さな字がいっぱい書かれていた。端正な字であった。
ひろたさんが肺がんであることは聞いていたし、治療に励んでいたことも知っていた。そして長年に亘って研究していた竹久夢二を何とか完成させようとされていた。夢二に関する文章を何度かもらっていたし、私自身も夢二の絵が好きだったし、ちょうど某所での講座で何か話さなければならなかった時だったので、「竹久夢二ー~生の軌跡」をテーマに掲げた。2018年であった。
私が、夢二の足跡をたどって、夢二が亡くなった信州の高原日光療養所跡(現在はJAの病院になっている)にいったことを報告すると、ひろたさんは私も行きたかった、というハガキをもらったこともある。
夢二が書いたものをすべて集め、関連文献を渉猟してまとめたものを講座で発表し、私自身の夢二の見方をひろたさんに送ったこともある。
ひろたさんの夢二研究にかける情熱を知っていた私は、ひろたさんが亡くなられた報せをうけ、夢二研究はどうなるのだろうかと心配していた。ひろたさんは、亡くなられる前、もう八割は完成していると言っていた。
ひろたさんの夢二研究は、高木博志さんらの手で整理され、本になった。嬉しい限りである。ひろたさんも天国でさぞ喜ばれていることであろう。まさに「遺著」である。
ひろたさんには、私が書いたものも送っていた。送るたびにきちんと読んでくださって、何らかの批評をいただいた。それが楽しみで書き綴っていた。
しかし、ひろたさんが亡くなられてからは、書く意欲が私のなかから消えていった。私が教えを受け、親しくしていただいた方々が、次々と物故され、私だけが取り残されたような、そんな気がしている。
今日、恵贈されたこの本を、さっそく読もうと思う。ひろたさんとは、1997年頃からのつきあいであった。たくさんの本をいただいた。ひろたさんには、感謝しかない。
これは『静岡新聞』のHPである。共同通信の配信だろうが、もし『静岡新聞』独自だとするなら、驚くしかない。『静岡新聞』には、警察との癒着の歴史がある。
東京弁護士会が警視庁に送った「異例」の警告書 天皇制を批判した男性に公然と行われた尾行・監視
テレビを見ない私は、YouTubeチャンネルのデモクラシータイムズなどをみているが、そこに出てくる人のことば遣いに違和感をもつことがある。
その一つは、ピリオドを打たないで、長々と話しをつなげていく話し方である。とりわけテレビ業界に生きていた方にその特徴がある。しっかりとひとつのまとまったところで、句点(。)をつけて、語尾をきっちりとしめるべきである。
もう一つは、意味のない挿入句をはさむことである。たとえば、「ある種の」がある。話の流れから、「ある種」をさしはさむ必要がないのに、入れる。
語るときには、書き言葉ではないけれども、やはり論理的に話していくべきである。