窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

姫路城2

2008年07月29日 | 史跡めぐり
3.備前丸

ようやく大天守を真上に見上げる備前丸に到着。この備前丸には明治15年まで現在の姫路城を築城した池田輝政が実際に居住していた御殿があったそうですが、火災で焼けてしまい現在は何も残っていません。ここまでくると大天守の圧倒的な威圧感が感じられます。因みに豊臣秀吉の築城した大阪城天守閣は恐らく姫路城ぐらいの大きさであっただろうと言われています。秀吉時代の築城技術では全て漆喰の白壁というわけにはいかず、この位の大きさが限界であったようです。



大天守は外観5層、地下1階、地上6階となっており、高さはおよそ48m。千鳥破風や唐破風を多用した非常に美しい城で、その美しさから別名白鷺(はくろ)城と呼ばれています。

4.大天守内部

大天守は内部を見て推察するに、安土城のように居住を目的としては作られておらず籠城の場合に使用するところだったように思われます。というわけで内部は実に薄暗く、殺風景です。天守閣地階から5階までを貫く東西の大通し柱が上手く撮影できずここに載せられないのが残念ですが、大天守内部の様子を簡単にご紹介していきます。



 上の写真は大天守地階にある「流し」です。その名のとおり、籠城の際の炊事のために設けられたものです。因みに姫路城が作られたのは関が原の戦いが行なわれた直後の1601年であり、衰退したとはいえ当時はまだ大阪に豊臣氏が勢力を保っていたため極めて実戦的につくられた城ではありますが、結果的に姫路城が実際の戦闘で使用されることはありませんでした。



 したがって内部の壁は火縄銃や槍、弾薬袋などを掛けられるようになっており、大天守が籠城時の文字通り最後の砦であったことを窺がわせます。



 上の写真は「武者隠し」と呼ばれていて、ここに身を隠し攻めあがってきた敵を攻撃するのだと言われていますが、本当のところは疑わしく思います。こんなところに身を隠したところでその効果は知れており、むしろ打って出た方がましですし、そもそも籠城もここまで敵に突破されるのであったら、守備側もほとんど抵抗できる状態にはないでしょう。



 大天守最上階の望楼からの眺めです。姫路城が築城された頃までの天守は望楼型天守といい、天守の最上階に望楼と呼ばれる独立した櫓をのせています。大天守内には姫路城の構造を再現した模型がありますが、これを見ると最上階の望楼だけが階下の天守とは独立しているのが分かります。

  繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

よろしければクリックおねがいします!

人気ブログランキングへ
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする