10月25日、広島県呉市にある呉市海事歴史科学館(愛称:大和ミュージアム)へ行ってきました。呉は戦前、海軍工廠があった所で世界最大の戦艦大和もここで建造されました。ということで、同科学館は大和を中心に造船の町呉の歴史や造船の科学などを紹介しています。
館内に入るとまず目を引くのは、全長26.3m、1/10スケールの戦艦大和模型です。子供の頃、1981年(昭和56年)に公開された映画『連合艦隊』で撮影に使用された1/20の大和模型を見たことがありますが、さらにその倍の大きさです。
大和は1937年(昭和12年)起工、1940年(昭和15年)8月8日に進水しました。全長263m、全幅38.9m、基準排水量64,000トン、速力27ノット。駆逐艦1隻の重量にも匹敵する世界最大の46㎝三連装砲塔を3基備え、装甲は舷側41㎝、甲板20㎝~23㎝、主砲防盾65㎝、艦橋50㎝という破格なものでした。意外なことに、これだけの巨大戦艦でありながら、大和に要求されたのは「いかに小さく造るか」ということだったそうです。
海軍からの厳しい要求を満たすため、大和の建造には当時の日本の造船技術・科学技術の粋が集められました。
例えば、艦首水線下のバルバスバウ(球状艦首)。これにより速力27ノット時で造波抵抗を8%減らすことができたそうです。それまでの艦首は上の写真左(戦艦長門)のようなものでした。写真右は戦後に建造された大型タンカー「日精丸」ですが、大和に採用されたバルバスバウが戦後の造船技術に大きな影響を与えたことが分かります。
直径5mもの巨大スクリュー。これだけ大きなものを造る鋳造鋳物技術も戦後の鋳物技術の基盤となっています。
当時世界最大、15m測距儀。ここで培われた精密光学技術も戦後の精密光学機器産業に大きな影響を与えました。
大和の建造には電気溶接が導入されました。大和以前にも電気溶接技術はありましたが、依然として造船は鋲打ちが主流でした。この電気溶接によりブロック工法(船体をいくつかの塊に分けて同時製造し、最後につなぎ合わせる工法)が可能となり、大幅な工期短縮、コスト削減につながりました。この電気溶接・ブロック工法は戦後の造船技術の主流となりました。
46㎝砲の九一式徹甲弾(対艦艇用の砲弾)。この砲弾は目標に届かず水面に落下すると先端の風帽が外れ、写真右のような平頭になります。17度の角度で入水した砲弾は平頭になることによって、角度を水平に変えて水中を直進、目標に命中する確率を大幅に向上させています。最大射程距離は42㎞ありました。
こちらは46㎝砲の三式焼霰弾。焼霰弾とは、飛行中の航空機や陸上の目標の焼夷効果を高めるための砲弾で、例えば航空編隊の前方に向けて発射された砲弾が、調停時間が来ると炸裂し、996個もの焼夷性弾子が傘状に広がって目標を補足するという仕組みになっています。
大和は1945年(昭和20年)4月7日、鹿児島県坊ノ岬沖で米軍の2時間に及ぶ猛攻を受け、沈没しました。最近の調査で、大和は上の写真のような状態で海底に沈んでいることが分かっています。
<つづく>
呉市海事歴史科学館
広島県呉市宝町5-20
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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