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3年ぶりの「史跡めぐり」です。2月に大雪のため行けなかった飯山を訪れ、隙間時間に散歩がてら飯山城へ行ってきました。
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上の地図(クリックすると拡大します)からも分かるように、飯山城は東を千曲川、西を関田・斑尾の山地に挟まれた狭隘地にある高さ30mほどの独立丘陵を削って築かれた梯郭式の平山城です。周辺の山には、とんば城、坪根城、山口城、岩井城などいくつもの山城があります。それらに比べれば単独のそれも低い丘に作られた城ですが、北は越後へと至る狭い地形、すぐ東側を千曲川が流れていることから要衝を抑える意味合いが強かったのではないかと想像します。
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飯山城の築城年は不明ですが14世紀にはあったとされ、1564年(永禄7年)に上杉謙信が、武田信玄に対抗するため本格的に改修し現在の城郭に近いものとなりました。1568(永禄11年)には武田軍の攻撃を受けますが、落城しませんでした。その後権力者の変遷とともに目まぐるしく城主が変わっていますが、江戸時代は飯山藩の藩庁が置かれ(上の地図は江戸期のものです。クリックすると拡大します)、明治以降、廃城となっています。
今回は恐らく、城の南西側から入り、帰りは南の大手門側から出ました。冒頭の写真は南中門跡に民家から再移築された城門です。その後は、上の地図に沿ってご紹介していきましょう。
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西郭。写真を見ると分かりますが、石塁はほぼ本丸だけで、あとは土塁で築かれています。西郭には城主の私邸である西館が置かれました。
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西郭から帯廓へ通じる道。元々ここに道はなく、本丸へは二の丸からでなくては上がることができませんでした。
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もちろん、この帯廓から本丸へ上がる石段も元々はありません。
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本丸北側の枡形虎口にあったと思われる櫓台の跡。虎口(小口とも)とは郭への狭い出入口のことです。中世以降の城郭に見られ、防御のため様々な工夫が凝らされました。以前、このブログで韓国の「西生浦倭城」に遺る様々な形の虎口をご紹介しています。
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本丸二重櫓跡。飯山城に天守はなく、江戸時代は本丸と三の丸に二重櫓がそれぞれ1棟ずつあり、天守の代わりをしていました。東西9.9m、南北6.3m、二階建ての櫓だったと言われています。今は跡形もありません。
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現在飯山城は葵神社の境内となっています。
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本丸裏手の不明門(あかずもん)跡。江戸時代後期にはほとんど使われなかったことから不明門と呼ばれています。写真に見える石段も江戸時代にはなく、明治になってから作られたものです。19世紀初頭の絵図には「冠木門(笠木を柱の上方に渡した屋根のない門)」だったと記されています。
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本丸から二の丸へと降りていきます。写真奥に見える標識の向こうが三の丸です。このように、地形の険しい側に本丸を置き、それを囲むように二の丸、さらにそれを囲むように三の丸を配置する縄張りを「梯郭式」と言います。
江戸時代、二の丸には二の丸御殿が置かれ、藩の執務を行う政庁として使用されました。
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坂口門跡。江戸時代前期、二の丸の東側に矢場や馬場が作られ、そこへ通じる通路として設けられました。
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再び二の丸から本丸北側の枡形虎口を望む。もう少し近づいて観察すればよかったです。
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二の丸から見た、千曲川。千曲川は、日本一長い川である信濃川の長野県側の呼び名です(何故か新潟県内を流れる部分を「信濃川」と呼びます)。下流は長岡、新潟に通じ、上流は長野、上田、佐久に通じることから戦略上非常に重要な川であり、これだけ河岸近くにある飯山城はやはり重要な戦略拠点だったものと思われます。
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西郭を見下ろす位置にある帯廓。その名の通り、郭というより通路ですが、有事にはここに兵を配置し防御に当たったことでしょう。
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最後は大手門側に降りました。写真右上に見る鳥居あたりにかつては大手門があったのではないかと思われます。なお、城を囲む堀は埋め立てられ、現在は残っていません。
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なお、翌日訪れた、臨済宗の再興者で、有名な白隠慧鶴の師である道鏡慧端が終生を過ごした庵、正受庵。道鏡慧端は真田信之の子で、飯山城で生まれたのだそうです。
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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