窪田恭史のリサイクルライフ

古着を扱う横浜の襤褸(ぼろ)屋さんのブログ。日記、繊維リサイクルの歴史、ウエスものがたり、リサイクル軍手、趣味の話など。

大宰府政庁跡

2010年02月05日 | 史跡めぐり
  大宰府政庁跡は水城から2kmほど歩いたところにあります。簡単に歩けてしまうので、それだけでも「水城を突破されたら大宰府は放棄するしかないだろうな」と実感できました。

  さて、今一度おさらいしますと、白村江の大敗の後、唐による侵攻を恐れた中大兄皇子は、西日本における政治・軍事・外交の拠点をそれまでの那津宮家(福岡市博多区比恵)から十数キロ内陸に移します。これが後の大宰府の原型になったと言われています。そして664年に国分丘陵と吉松丘陵を塞ぐ防塁である水城を築き、665年には大宰府を囲むように大野城基肄城(きいじょう)、阿志岐城といった大規模な百済式山城を次々と築きました。日本書紀には大宰府がいつ作られたのか記述がありませんが、水城や大野城が築かれた年代から類推して663年の白村江の戦い直後のことであろうと思います。因みに、阿志岐城についても文献の記録はありませんが、発掘調査で城跡が発見されています。実際地形を見ると、ここにも山城があった方が防衛上自然だと分かります。



  こうして白村江の大敗からわずか数年の間に筑紫の地形を利用した一大防衛網が完成しました。上の上空写真を見れば大宰府を中心として地形丸ごと要塞化したようであることが分かります(クリックすると拡大写真が見られます)。

  当時の天智朝が抱いていた唐による侵攻の現実味は、我々が想像する以上に大きいものであったに違いありません。唐という、当時の中国史上最大の帝国の成立は東アジア諸国に大変動をもたらしました。唐は西は西突厥、東は高句麗などを圧迫し、白村江の戦いを迎える頃にはほぼ最大版図にまで勢力を拡張しつつありました。そうした覇権主義的超大国が現れた影響の中で朝鮮半島では660年に百済が滅亡し、668年には高句麗が滅亡したのです。だとすれば、旧百済にまで迫った唐の勢力が白村江の戦いの余勢を駆って日本列島に侵攻してくるかもしれない、と考えたのは極自然なことではなかったかと思います。また、この時期は659年~661年に第四次、665年~667年に第五次とそれぞれ遣唐使が派遣されていますから、彼らからもたらされる唐の情報も、あるいはさらなる脅威を与えたかもしれません。



  ちょうど東アジア諸国2000年の興亡を追った「歴史地図」という動画が掲載されているサイトを見つけましたので、リンクさせていただきました。これを見ると唐の出現と勢力拡大が周辺諸国に与えたインパクトをより一層感じることができます(上の画像をクリックしてください)。わが国においても白村江の大敗が契機となり、都城律令の整備など天皇を中心とする中央集権体制の成立が急がれ、結果としてそれが現在に連なる日本という国の成立につながったわけですから、その影響はまこと大きかったといわなければなりません。



  さて、上の写真は大宰府政庁の復元模型です。ただし、これは10世紀後半に再建された大宰府を想定しています。白村江の戦い直後に建てられたと考えられる大宰府は、発掘調査によると掘立柱建物(Ⅰ期)で、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物が整備されました(Ⅱ期)。この建物は940年の藤原純友の乱で反乱軍の襲撃を受け焼失、10世紀後半に再建されました(Ⅲ期)。現在見られる礎石はそのⅢ期のものです。再建された建物は菅原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る 観世音寺は唯鐘の声を聴くのみ」と詠っているように壮大なもので、当時としては平城、平安に次ぐものであったと言われています。



 大宰府政庁跡の上空写真(クリックすると拡大写真が見られます)。



 それぞれ左から南門、回廊、西脇殿、東脇殿、正殿跡です。

 因みに、大宰府政庁跡は天神様で有名な太宰府天満宮から3kmほど離れたところにあります。天満宮のある場所は菅原道真が没したところであると言われています。



繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした

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