新羅時代の553年(真興王14年)から93年の歳月をかけて造営された、新羅時代最大・最古の寺院跡。裴勇俊(ぺ・ヨンジュン)お勧めのスポットなのだとか。
実際に現地に立ってみると、大変大きな寺院であったことが分かります。1976年に行われた発掘調査では、伽藍の総面積80,928㎡、沼地を埋め立てて台地とし、その上に造営されたことが明らかになりました。
昔、日本史で伽藍配置の変遷を覚えましたが、上空からの写真で伽藍配置を見ると、一塔一金堂で、中門・塔・金堂・講堂が南北一直線に並ぶ、いわゆる飛鳥寺式伽藍とほぼ同じ配置であることが分かります。飛鳥寺の建立は6世紀末なので、時代も一致します。
皇(黄)龍寺という名前の由来は、新羅の真興王が月城(新羅の王城)の東にあたるこの地に新しい宮闕(きゅうけつ:宮城のこと)を造営しようとしたところ、黄龍が現れたことから寺院に作り変え、皇(黄)龍寺と名づけたという故事によります。高麗時代の1238年(高宗25年)、モンゴルの侵入を受け焼失。
塔の跡。日本では大化の改新があった、新羅時代の645年(善徳女王14年)、百済の有名な匠人、阿非知を招請し、九重の塔を完成したとされています。
礎石の数から見ても、非常に巨大な塔であったと推測されます。
皇(黄)龍寺跡
慶尚北道 慶州市 九皇洞 320-1
繻るに衣袽あり、ぼろ屋の窪田でした
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