「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」 板橋区立美術館

板橋区立美術館
「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」 
2/24~4/15



板橋区立美術館で開催中の「東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」を見てきました。

戦前、戦後にかけて、東京の池袋と落合、そして沖縄の首里のニシムイには、主に若い芸術家の集った「アトリエ村」ともいうべき集合体が存在しました。

はじまりは落合でした。そもそも東京の美術の中心は上野にありましたが、1920年前後、落合は郊外としての宅地開発が進み、満谷国四郎、金山平三、佐伯祐三らといったヨーロッパ帰りの画家が集いました。また佐伯祐三や、沖縄から上京した名渡山愛順らも加わりました。


佐伯祐三「下落合風景(テニス)」 1926(大正15)年頃 新宿区(落合第一小学校)

大正末期の下落合を描いたのが、佐伯祐三の「下落合風景」で、古い日本家屋を背に、手前に広がる空き地でテニスを楽しむ人の姿を表していました。家屋の並びには黒松と思しき高木がそびえ、瓦屋根の上には白い雲と水色の空が広がっていました。空き地の土は赤茶けていて、人は白いテニスウエアを身につけていました。おそらくは簡易的なコートなのか、コート上には雑草も生えていました。いかにも郊外といった様相で、どことなくのんびりと流れる時間が伝わってくるかもしれません。


松本竣介「郊外」 1937(昭和12)年 宮城県美術館

松本竣介の「郊外」が異彩を放っていました。下落合の崖線を俯瞰的に描いた一枚で、木々の緑に包まれた野山の手前には、白い学校のような建物が連なっていて、校庭で遊んでいると思しき子どもたちの姿も見えました。ともかく目を引くのが、全体を覆う緑色の色彩で、空も青というよりも、深緑に染まり、何やら幻想的な光景にも思えなくはありません。


続くのが池袋で、1930年頃には、全国各地の画家が集まっては、アトリエ村が形成されました。それは、モンマルトルに見立てられた上野の丘に対し、詩人の小熊秀雄の作品に因んで、池袋モンパルナスと呼ばれました。やがて家賃の安いアトリエ住宅が増え、一時は100軒以上も連なり、画家だけでなく、詩人や演劇人らも、ともに交流しました。


長谷川利行「新宿風景」 1937(昭和12)年頃 東京国立近代美術館

この池袋モンパルナスに出入りしていたのが、京都出身の長谷川利行で、「新宿風景」では、駅付近と思われる新宿の雑踏を、白や黄色を基調とした色彩にて捉えていました。筆は素早く、黒い人影は点々としていて、何やら陽炎のようにも見えるかもしれません。この頃の長谷川は木賃宿に住んでは、新宿界隈の画廊や喫茶店で個展を開いていました。

北海道出身の難波田龍起も、1935年には千川に移り住み、絵画を制作しました。「ヴィナスと少年」では、古代ギリシャ風の彫像と少年の姿を、白くざらりとした砂地のような空間に描きました。それはややシュールでもあり、のちに進む抽象の作風とは似てもにつきません。


靉光「鳥」 1942(昭和17)年頃 宮城県美術館

広島生まれの靉光も、長崎町のアパートに暮らしては、絵画を描きました。うち目立つのが「グラジオラス」で、緑色のグラジオラスを縦の構図で表していますが、よく見ると巨大なカマキリが顔を覗かしていて、実に不気味な雰囲気が漂っていました。

また北九州出身で、同じく長崎町に転居した寺田政明の「芽」も、異様な様相を見せた作品で、植物や昆虫のようなモチーフが混在し、一体、何を捉えているのかよく分かりません。寺田は庭の鳥や虫を好み、生き物に対して深い共感を抱いていたそうです。ひょっとすると庭で見た生き物を表しているのかもしれません。

秋田に生まれ、板橋の志村の小学校で教壇に立ちながら、画家として活動した浜松小源太の「世紀の系図」も、強い存在感を放っていました。布やリボンで出来た鳥か怪物を思わせるモチーフの中、宙に吊られたのは赤ん坊の姿で、何やらカーキー色の服に包まれていました。赤ん坊の上には日の丸と思しき旗が揺らめくものの、ボロボロに破れていて、その向こうのナチスの旗も同じように朽ち果てていました。1938年の制作で、この年にヒトラーが統帥権を掌握し、国家総動員法が公布されました。戦争に突き進んだ当時の世相、ないし不穏な未来を暗示しているのかもしれません。なお画家も戦中、ビルマにて亡くなりました。

戦後の池袋モンパルナスでは、労働争議や基地闘争など、社会的、政治的なメッセージを持ち得た作品が、多く制作されるようになりました。また戦中では否定されたシュルレアリスムについて、再び試みる画家も現れました。一方で、米兵向けのお土産の肖像画、いわゆる「きぬこすり」が描かれたりするなど、多様な展開も見せていました。また沖縄出身で、疎開先から東京へと戻った南風原朝光は、詩人の山之口獏とともに、池袋の泡盛酒場で琉球舞踊の夕べを開催するなどして、沖縄の文化を紹介しました。


藤田嗣治「孫」 1938(昭和13)年 沖縄県立博物館・美術館

東京と沖縄は戦前から行き来があり、1937年に沖縄航路の所要時間が短縮すると、沖縄へ渡る画家も増えました。野見山暁治の「首里城の高台から望む赤田町」や、鳥海青児の「沖縄風景」も、同地で描かれた作品で、1938年に藤田嗣治一行が沖縄に渡った際は、先の南風原朝光が案内役を務めました。その藤田による「孫」も目を引きました。

丸木位里・俊の「沖縄の図」8連作のうちの1枚、「自然壕(ガマ)」も、画家が沖縄戦に取材した作品で、壕の中で不安そうにひしめく女性や子供の姿を描いていました。空の茶碗を差し出す女性の表情は、それこそ窮状を訴えかけるようでもありました。


南風原朝光「窓」 1954(昭和29)年 沖縄県立博物館・美術館

ラストが沖縄のニシムイ美術村での展開でした。戦後、米軍占領下の1948年、首里のニシムイに沖縄の美術家が集まり、アトリエを構え、美術村が形成されました。メンバーの多くは学生期を東京で過ごした画家で、名渡山愛順、安次嶺金正、安谷屋正義、それに玉那覇正吉らがいました。

名渡山愛順の「沖縄の女」に魅せられました。皿や瓶の並ぶ中、布団の上で横たわる女性を描いた作品で、右手を頭の後ろに回し、目を開いては上を向いていました。目鼻立ちはくっきりしていて、どこか健康的で、力強さも感じられました。

玉那覇正吉の「老母像」も迫力がありました。青い椅子に座る老いた女性を真正面から捉えていて、顔や手は日焼けによるのか、オレンジから黒色に染まっているようにも見えました。手の皺は深く、骨ばった様子から、女性の生きた長い年月が感じられるかもしれません。

大嶺政寛の「1950年西原」にも目が留まりました。一面の平原の上には、戦車が打ち捨てられていて、かの戦争によるのか、樹木もまだ焦げていて、あたりは土がむき出しになっていました。地形すら変えてしまった、沖縄戦の甚大な被害を思わせるものがあります。

ニシムイ美術村の終焉は早く、必ずしも長続きはしなかったものの、やがて沖縄最大の公募展に成長する「沖展」に関連するなど、のちの沖縄の美術界に影響を与えました。

池袋モンパルナスとニシムイ美術村の活動は、必ずしも独立していたわけでなく、互いに関係し合いながら、緩やかに繋がっていました。出展数は90件で、沖縄県立博物館・美術館からも多く作品がやって来ていました。その運動の軌跡を作品から検証した、好企画と言えそうです。



なお公式サイトにも案内があるように、本展終了後、板橋区立美術館は改修工事のため、約1年間に渡って休館します。

「改修工事による休館のお知らせ」(板橋区立美術館)



改修に際しては、展示ケースや照明、空調設備、トイレをリニューアルするほか、エントランスホールの内装も一新し、コミュニティスペースやエレベーターが新設されます。また、国宝や重要文化財の公開も可能になるそうです。



リニューアルオープンは、2019年6月頃の予定しているそうです。確かに設備こそ老朽化していたものの、企画展示に関しては定評のある美術館でした。リニューアル後の展開にも期待したいと思います。



ひょっとすると「永遠の穴場」ののぼり旗も見納めとなるかもしれません。


長期休館前の最後の展覧会です。4月15日まで開催されています。おすすめします。

「20世紀検証シリーズ No.6 東京⇆沖縄 池袋モンパルナスとニシムイ美術村」 板橋区立美術館@itabashi_art_m
会期:2月24日(土)~4月15日(日)
休館:月曜日。
時間:9:30~17:00 *入館は閉館の30分前まで。
料金:一般650円、高校・大学生450円、小・中学生200円。
 *毎週土曜日は高校生以下無料。
住所:板橋区赤塚5-34-27
交通:都営地下鉄三田線西高島平駅下車徒歩13分。東武東上線・東京メトロ有楽町線成増駅北口2番のりばより増17系統「高島平操車場」行き、「区立美術館」下車。
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