それはイタリア
「する、行う」の謙譲の形である「いたす」について考えていて、「不徳の致すところ」というのを思い出し、それに関連して、以前、「私の不徳の至りです」というのを聞いたことを思い出しました。あまり聞いたことのないセリフですよね。
「不徳の致すところ」の「致す」は、原因となる、引き起こす、招く、という意味です。一方、「至り」は、「結果、極み」という意味で、「若気の至り」は、若者の、勢いだけで無分別に行動しがちな気持ちの結果、「恐縮の至り」は、恐縮の極み、ということになります。
「不徳の至り」は、徳の足りないことの結果という意味になるので、これ自体を誤りだと断じることはできないのですが、どうも気になって~( ̄‐ ̄)ウーム。「私の不徳の致すところです」というのはよく聞く形で、私の不徳が引き起こしたことで・・・という意味ですが、「若気の至り」が、若者の過ちなのだから大目に見てよというニュアンスがあるので、「不徳の至り」と言われると、あまり反省していないように聞こえて・・・、う~ん( ̄‐ ̄)、どうでしょう?
「する、行う」の謙譲の形である「いたす」について考えていて、「不徳の致すところ」というのを思い出し、それに関連して、以前、「私の不徳の至りです」というのを聞いたことを思い出しました。あまり聞いたことのないセリフですよね。
「不徳の致すところ」の「致す」は、原因となる、引き起こす、招く、という意味です。一方、「至り」は、「結果、極み」という意味で、「若気の至り」は、若者の、勢いだけで無分別に行動しがちな気持ちの結果、「恐縮の至り」は、恐縮の極み、ということになります。
「不徳の至り」は、徳の足りないことの結果という意味になるので、これ自体を誤りだと断じることはできないのですが、どうも気になって~( ̄‐ ̄)ウーム。「私の不徳の致すところです」というのはよく聞く形で、私の不徳が引き起こしたことで・・・という意味ですが、「若気の至り」が、若者の過ちなのだから大目に見てよというニュアンスがあるので、「不徳の至り」と言われると、あまり反省していないように聞こえて・・・、う~ん( ̄‐ ̄)、どうでしょう?