洞雲寺の鐘楼門脇に「東司・厠」の案内板が立てられており、厠とあるので便所であることがわかる。
古くは禅宗寺院では便所を東司(トウス)といい、主として東方に設けられていたようである。当寺に不浄を転じ清浄にさせる徳をもつといわれるかつて東司の本尊であった鳥蒭沙摩明王が祀られている。
洞雲寺の鐘楼門脇に「東司・厠」の案内板が立てられており、厠とあるので便所であることがわかる。
古くは禅宗寺院では便所を東司(トウス)といい、主として東方に設けられていたようである。当寺に不浄を転じ清浄にさせる徳をもつといわれるかつて東司の本尊であった鳥蒭沙摩明王が祀られている。
木材港南地区の貯木場のフェンス脇に、池や沼などの水辺に生えるガマが繁茂していた。
貯木場はアスファルト舗装してあるが相当年数が経っており維持管理も行き届いておらず、木材屑などの腐植土の上に生えだしたものがこのように広がったようである。
木材港南地区の貯木場と歩道を区画するフェンスにヒルガオであろうか繁茂していた。
貯木場も歩道もアスファルト舗装してあるが相当年数が経っており維持管理も行き届いておらず、わずかな隙間に生えだしたものがこのように広がったようである。
昨日紹介した木材港南地区の貯木場内の隅に通常の丸太でない不思議な巨木の株部分が置かれていた。
上部には鳥の彫刻のようなものがみられ、同一材で彫り込まれたものか取付けたものであろうか。ここは輸入木材が置かれているところでありこれも輸入されたものであろうか。
木材港南地区の貯木場に積み上げられている輸入木材の丸太で、世界各国からさまざまな種類の木材が集まっているものとみられる。
丸太には色んな記号や番号が表されており多くの手数が掛かってここに貯蔵されているものとみられる。これを加工して製品になるのであるが伐採原木はどれくらいの単価なのであろうか。
冠高原のチチヤス牧場の牛舎跡で比較的新しい建物であるが、いつごろ廃業したのであろうか。
以前は牧場内で放牧されていたようであるが、詳しいことは不明であるが牛舎内をみると相当頭数のつなぎ牛舎であったようである。
昨日紹介した今市稲荷社の石段上り口の脇に置かれている樋門石で、表示板には「汐田排水樋門石」と表示してあり南蛮樋であったとある。
文政10年(1827)以降の地御前村絵図に大迫山から流れる今市川支流の稲荷社付近に樋門の絵と唐樋と記されているのでこの唐樋門の一部であったものとみられる。
唐樋門は汐の干満作用によって自然開閉する構造の招き扉と呼ばれる木製の扉が付けられたもののようである。
国道2号線沿いから廿日市青果物市場前付近まで大きな更地になっており、大規模小売店舗ができるのであろうか。
右側に見える道路は住吉新開が出来るまでの堤防道の跡であり、当ブログ主が小学生のころ青果市場前は広い空き地で、サーカス興行が行なわれ見に行ったことを思い出した。
昨日紹介した「火立岩跡」標木付近の鰆浜一帯の海岸はカキの採苗場で採苗棚がずらりと並んでいる。
8月ごろにカキは産卵・放精をおこなって海中で受精し、採苗棚のホタテ貝殻で作られた採苗連にカキの幼生が付着するようである。
西広島バイパスと宮島街道が合流する付近の広電宮島線脇にある「火立岩跡」標木で、先日の管弦船がこの沖合いで潮時を待っていた。
かつて拝床山から連なる先端海岸に火立岩があったが、国道や宮島線などによって消滅した。軍記物語などによると厳島合戦の際に毛利元就が拝床山・火立岩に陣を置いて厳島に出陣したとある。
本殿から御神体を乗せた御座船は御前神社の手前火立岩跡前で潮時を待ち提灯に明かりが灯るころ外宮地御前神社に向かう。
地御前神社にはかつて海中に鳥居があったようで、厳島図会によると「鳥居の内に御座船を入れ伶官楽を奏し衆僧伽陀を唱え」などとあり神仏習合時代の様子がチラッと窺うことができる。
旧暦6月17日の昨夕から夜に行われた厳島神社最大の祭りで王朝絵巻を再現する祭礼、地元では「ジュウシチヤ・オカゲンサン」などといわれている。
本殿から御神体を乗せた御座船は大鳥居前の儀を終え、管絃を合奏しながら対岸の地御前神社の手前、火立岩跡前で潮時を待ち提灯に明かりが灯るころ外宮地御前神社に向かう。
画像は火立岩跡前で潮時を待っている曳き船と御座船。
陽光台にあるコーナン屋上から極楽寺山方面を遠望する。手前付近は長尾の尾根筋でアマノ病院付近に沢ノ尾峠があり、かつて徒歩中心であったころ上平良地区から宮内・地御前方面への近道であった。
極楽寺山系のもっとも高く見える所に中世の星ケ城跡があり、その後方に極楽寺のある山があるのであるがこの方面からは見ることはできない。