三宅大元神社
染羽大元神社
昨日、益田市を訪れて探訪地にあった三宅大元神社と染羽大元神社を参詣した。三宅大元神社は三宅御土居跡脇に染羽大元神社は染羽天石勝神社境内に祀られている。石見地方では明治初年頃564社位の大元神社が祀られていたようであるが、どのような信仰が行われ祀られていたのかは定かでない。大元神社は厳島より勧請と記されているものが複数みられるので、厳島神社摂社の大元神社が土地の開闢の元祖神として勧請され祀られていたものではなかろうか。
三宅大元神社
染羽大元神社
昨日、益田市を訪れて探訪地にあった三宅大元神社と染羽大元神社を参詣した。三宅大元神社は三宅御土居跡脇に染羽大元神社は染羽天石勝神社境内に祀られている。石見地方では明治初年頃564社位の大元神社が祀られていたようであるが、どのような信仰が行われ祀られていたのかは定かでない。大元神社は厳島より勧請と記されているものが複数みられるので、厳島神社摂社の大元神社が土地の開闢の元祖神として勧請され祀られていたものではなかろうか。
先日、原地区にある民家土蔵の蔵飾りで牛に乗った金太郎を紹介した時に画像の古いものを使用していた。昨日、ウォーキング途中に撮影して画像をみると牛の前足部分が補修されていた。しかし、牛の背に載せた籠が剥がれている部分は何が表してあったのか分からなかったものとみられ剥がれたままとなっていた。
昨日、稲刈りの多くを鋸鎌で手刈りしたことを紹介したが、以前は稲束をテネル(結束)のは稲藁を湿らせて使用していたが当ブログ主は結束紐を使用した。当ブログ主が子供の頃中画像のような手押しの稲刈り機が普及し、手刈りより効率的であり手伝ったことを思い出した。その後親の時代にバインダーを購入して現在3代目が活躍している。
今年は雨天の日が多くケズ田(湧き水が出る田んぼ)はジルク稲刈りをすることが出来なくて、3便の田んぼは平年より12日遅れで稲刈りを始めた。ケズの出るところは田植え靴を履いて手刈りをしたが、田んぼの中ほどでバインダーが進まなくなり再度手刈りをした。2便の田んぼもジルク多量の手刈りをしており、親から引き継いで稲作をしてから何十年になるだろうか初めての経験である。
上平良地区二重原八幡神社にはかつて厳島神社の鳥居と同じ木造の両部鳥居があったが老朽化のために取り除かれて以降再建されることもなく礎石のみ残されている。かつての鳥居には神額が掲げられていたが現在本殿に残されており、この神額には寛政8年(1796)の銘文が刻されている。
昨日は廿日市地域でみられるハゼの稲の掛け方を紹介したが、当市域ではみられないような稲掛けが一昨年訪れた島根県出雲市と太田市にあった。上画像と中上画像は出雲市佐田町でみかけた稲掛で当地方でどのように呼称しているのかは定かでない。中下画像と下画像は太田市温泉津町西田地区でみられる稲掛でヨズクハデと呼称されており、太田市の有形民俗文化財に指定されているようである。
今年は雨天が多くて田んぼがジルク稲刈りが遅れ気味であるが、廿日市地域でハゼ掛けが済んでいるものをみると色々な掛け方がみられる。上画像はナルに稲束を七三に分け交互に掛けて、その上に二又の稲束を掛けたもので、中上画像は上の稲束の向きを互い違いに被せたものである。
中下画像は上の稲束を同じ方向に被せたもので、下画像(2013撮影)は今年まだ見かけてないもので、上の稲束を長手方向斜めに被せて穂先を七三に両側に垂らしたものである。
一昨日は衆議院議員総選挙及び最高裁判所裁判官国民審査が行なわれ、開票作業が行なわれる阿品台東小学校体育館には風雨の中、各投票所から投票箱が次々と持ち込まれていた。市域の53投票所や期日前投票所などから小選挙区、比例代表、最高裁判所裁判官国民審査の3箱ずつ170余の投票箱が集まりつつあってずらりと並んだ様子は圧巻であった。
昨日紹介した大之木跨線橋を流れる新宮川はそれ以前からの水路変更により変更川とも言われていると古老に聞いたことがある。新宮川の源流は日比呂谷から流れる小流と二重原川からの分流余水が合流して途中に昭和18年(1943)に築造された速谷溜池がある。かつて溜池築造に関わった農家の灌漑面積は5町(5ha)であったようである。
JR山陽本線の上に架かる大之木跨線橋の補修工事のために明日から来年3月12日まで通行止めになると看板表示があった。江戸期に通っていた旧西国街道の越峠垰付近は明治期に山陽鉄道建設のために掘割りとなり、従来の旧街道や新宮川が遮断されたためにこの水路跨線橋を設けて通行の用と下流域の水田を潤していた。
明治30年(1897)に開通した当時に設けられた水路跨線橋は昭和3年(1928)に複線化されており、昭和39年(1964)の電化により嵩上げされているので何度か水路跨線橋の変遷があった。
今まで気が付かなかったが近所で豆柿が鈴なりに生っていた。ネットによると豆柿、小柿、ブドウガキ、山柿、シナノガキなどと呼ばれているようである。まだ実が熟していないので食していないがどのような味なのであろうか。
平良地区を縦断している市道中央線(旧平良小道)沿いに流れている小川は河野原川から分水している農業用水路であるが名称は定かでない。かつてこの水路を利用して洗い物をしていたものとみられ石段が残っており、その後出入りのための石橋が架けられている。市道中央線(旧平良小道)は砂利道から何度か改修されて道路面が高くなって石橋の上にコンクリート打ち増しがしてある。
原地区を通る県道294号で川末川に架かる中小路橋の手前袂から川沿いの市道旧県道線を約100m上って行くと道路脇に高さ6~7mの小さな流れの滝がある。滝名は地元の人に聞いても不明なので江戸期の地誌に中小路橋付近の土橋が川久保とあるので川久保の滝と仮称する。市道旧県道線のルートは江戸期の石州往還跡でありかつて旅する人達はこの滝を見て一息ついたのではなかろうか。
上平良地区の民家土蔵の蔵飾りで農耕牛の背の両側に籠を載せ金太郎が鉞を腰にして牛の上であぐらを組んでいる像が漆喰細工で表されている。昨日紹介した蔵飾りとよく似た構図であり、同じ左官さんかどちらかを見聞して製作したものであろう。
原地区の民家土蔵の蔵飾りで農耕牛の背の両側に籠を載せ金太郎が籠を背負って牛の上であぐらを組んでいる像が漆喰細工で表されている。牛の背に載せた手前の籠と牛の前足部分が剥落しているのが惜しまれる。先日の蔵飾りは宝珠を持った金太郎であったがこれは牛に乗った金太郎。