『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

奈良路探訪

2019年05月31日 | 旅行

 

 

本日は早朝より奈良、飛鳥路を巡るツアーに・・・ 橿原神宮、大神神社に参詣してその他各地を巡ったが、後日紹介します。宿泊ホテルより慣れないタブレットより送信。明日はどこに行くのだろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

平楽地蔵堂の今

2019年05月30日 | 「廿日市地区」ぶらり

 


速谷神社前交差点手前の民家裏手にある権現山北麓の平楽地蔵堂で、御本尊の平楽地蔵は中世の速田大明神に奉仕する供僧寺であった平楽寺の名残りを伝えてくれる地蔵である。以前壁面にシートが張り付けられていることを紹介したが、現在屋根にもシートが被せてあり痛みが進んでいるのであろうか。
堂内に掲げてある昭和初期のものであろうか芳名板には上平良の200余名の寄付名が記されており、昭和25年(1950)のものには上平良その他の240余名の寄付名が記されている。かつてこのように多くの人々に平楽地蔵は信仰、維持されていたのであるが・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸内海遠望

2019年05月29日 | 「廿日市地区」ぶらり





 


原地区の伊勢神社一の鳥居手前から瀬戸内海を遠望すると上画像の中央付近を山陽自動車道が横切っており、その上側に山陽新幹線が少しみえる。瀬戸内の向う側には宮島が見え朱色の鳥居がかすかにみられるが画像では・・・ 
下画像で瀬戸内に突出した木材港南地区に廿日市衛生センター、広島ガス廿日市工場がみられ、瀬戸内の向う側には大奈佐美島、能美島、似島の安芸の小富士、江田島がみられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐戸周辺の近代建築探訪 ③

2019年05月28日 | 建造物



 


下関市役所の北側にある下関市立近代先人顕彰館(田中絹代ぶんか館)は大正13年(1924)に旧逓信省下関電信局電話課庁舎として建築されたようである。官庁建築であるが凹リブの入った柱型や塔屋、窓の曲線などモダンなデザインの建築である。近接した旧宮崎商館は明治40年(1907)に建築された煉瓦造りの建物で、先日紹介した旧下関英国領事館が建築された翌年に建築されており、旧下関英国領事館との類似性もあるようである。両施設にそれぞれ下関ゆかりの芸能人田中絹代・木暮実千代の関連資料などが展示されているようであるが時間の関係で見物は出来なかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐戸周辺の近代建築探訪 ②

2019年05月27日 | 建造物








 


唐戸交差点から少し離れた裏通りにある旧山口銀行本店(やまぎん史料館)は大正9年(1920)に三井銀行下関支店として建築されたようで、後に第百十国立銀行の本店となり山口銀行の創立本店として使用されていたようである。銀行建築を多く手掛けた長野宇平治の設計でギリシャ建築様式を取り入れた意匠のようである。
この通りはかつて銀行街であったようで少し離れたところに中国労働金庫下関支店がある。この労金下関支店は大正8年(1919)に不動貯金銀行下関支店として建築されたようで、その後日本貯蓄銀行、協和銀行を経て、山口県労働金庫・中国労働金庫下関支店となったようである。この銀行も西欧の建築様式を取り入れた意匠でシンプルであるが威厳のある建築デザインである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

唐戸の近代建築探訪

2019年05月26日 | 建造物




下関南部町郵便局




旧秋田商会ビル




 旧下関英国領事館


海響館近くの唐戸交差点周辺にはレトロな近代建築がみられる。下関南部町郵便局は明治33年(1900)に赤間関郵便電信局として建築されたようで、内部は郵便局として使用されており、一部にカフェが設けられて中庭がみられると思っていたが当日は休日であった。
隣接して大正4年(1915)に建築されたというユニークな旧秋田商会ビルがあったが、ここも休日のため内部を見ることが出来なかった。交差点向かいには明治39年(1906)に建築された旧下関英国領事館の煉瓦建築があり、内部を見物することが出来て2階の休憩室(カフェ&パブ)でコーヒーを飲んで一息入れた。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

亀山神社・山陽道起終点

2019年05月25日 | 旅行

 

 


一同は海響館の見物であったが例の如く徘徊癖が疼き出し唐戸周辺を探訪した。亀山神社のHPによると国道9号線沿いにある石鳥居は昭和8年(1933)に建立されたようであり、御影石製鳥居としては日本最大の鳥居のようである。
鳥居の脇には明治11年(1878)に建立された山陽道と刻された道しるべ碑がありここが山陽道の起終点でここから九州渡航をしていた要地であったようである。この前の道路は国道9号線であり国道9号線は日本海沿いを通っているものと思っていたがここでは瀬戸内海沿いを通っているようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤間神宮・安徳天皇御陵

2019年05月24日 | 旅行



安徳天皇西市御陵墓参考地

久根田舎安徳天皇御陵墓

 

源平の壇ノ浦の合戦に於いて幼くして亡くなった安徳天皇を祀った赤間神宮を何十年ぶりであろうか参詣した。境内には安徳天皇阿弥陀寺御陵があり、安徳天皇御陵の伝承地で、当ブログ主は宮内庁指定の安徳天皇御陵墓参考地の下関市豊田町豊田湖畔にある安徳天皇西市御陵墓参考地(王居止御陵)と対馬厳原町久根田舎の安徳天皇御陵墓を訪れたことがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長府巧山寺

2019年05月23日 | 廿日市関連

 

 

 開山金岡用兼・2世天翁玄播墓碑

3世三庭龍達・4世大雲守的・5世基外嶺雄墓碑

 

昨日、廿日市洞雲寺との関わりのある下関市長府の巧山寺を参詣した。廿日市桜尾城を領していた毛利秀元は関ヶ原の合戦後に長府に移封され、荒廃していた長福寺を修営して洞雲寺12世三庭龍達を招いて功山寺の住持とした。三庭龍達は洞雲寺の開山金岡用兼を勧請開山とし、師の13世天翁玄播を中興2世とし自ら3世とした。毛利氏の大きな後ろ盾を失った洞雲寺の住持である13世大雲守的、17世基外嶺雄も長府に移って多くの寺院を開いているのである。 (詳しくは廿日市の文化第20集-洞雲寺特集参照)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

醤油醸造場の大釜

2019年05月22日 | 「廿日市地区」ぶらり


 


地御前の町並みを歩いていると、岡野醤油醸造場に隣接して石川五右衛門を釜茹でしたような大きな釜が上屋を設けられた中に展示されていた。この大釜はかつて醤油醸造に使用されていたものとみられ、大正14年(1925)頃には地御前村で2軒の醤油醸造家があったようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浄厳寺の廃跡⇒光明寺

2019年05月21日 | 「廿日市地区」ぶらり

光明寺

大乗寺

廿日市後小路にある光明寺の地は江戸期の地誌によると護念山浄厳寺の廃跡に建立されたようである。桜尾城主毛利元清の子宮吉丸が天正17年(1589)8月23日に早世しており、浄厳寺は宮吉丸法名清厳院浄厳幻了の菩提寺であったものとみられる。毛利氏の防長移封に伴って毛利秀元は長府にあった専称寺を淨厳寺と改め舎弟宮吉丸の位牌を安置して菩提所とした。明治時代になって浄厳寺は大乗寺と改称されている。
明日は地域の人達と長府を訪れる予定であり大乗寺の門前をバスは通るであろう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

里山のササユリ

2019年05月20日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 


この時期に紹介している上平良地区の里山にササユリの花が咲いている。白い花びらに薄いピンクがかった花が多くみられる。この里山では毎年雑木の下樵りをされているのでササユリが繁殖しているのだが雑木林になると絶えてしまうのである。

※  昨日、当ブログを開設してからトータル閲覧数450万PVの節目を迎えることができました。一般受けするブログではありませんが、多くの方々に訪問・閲覧をして頂き大いに励みとなります。老化防止のために更新を続けるつもりですので、ご来訪・閲覧のほど宜しくお願い致します。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極楽寺道の石地蔵

2019年05月19日 | 「廿日市地区」ぶらり

 


極楽寺道の4丁碑手前に安置されている宝珠を持った石地蔵で、台座石には「立石又兵衛」「宝暦十三癸未六月廿七日」と刻されている。この石地蔵は廿日市町人の立石又兵衛が昨日紹介したお菊地蔵が造立された翌年の宝暦13年(1763)に寄進建立したようである。かつてこの石地蔵も結婚式の際に持ち出されていたようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

お菊地蔵

2019年05月18日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 


昨日紹介した極楽寺道里程碑の近くにあるお菊地蔵でかつて極楽寺道沿いにあったが西広島バイパスの建設により現在地に移転した。基礎石には建立年とみられる宝暦12年(1762)12月18日の刻銘がある。地蔵さんの頭部が意外と大きく鼻が欠けている石地蔵で、昔、結婚式にこの石地蔵が持ち出されていたと聞いたことがある。お菊地蔵の伝説については看板表示を参照してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極楽寺道里程碑など

2019年05月17日 | 「廿日市地区」ぶらり

 


平良一丁目の西広島バイパス側道脇に極楽寺道里程碑など4基が並べて立てられている。かつての極楽寺道に建立されていたが市街地化と西広島バイパスの建設で極楽寺道が無くなって里程碑などがここに移設された。これらのうちの極楽寺道里程基石碑はかつて広電宮島線の弘法踏切の傍らに建立されていたものが点々としてここに移設されている。 
これらの里程碑などについては廿日市の文化第21集(廿日市のいしぶみ)に所収の「極楽寺道三十七丁ぶらり登山」に詳述しています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする