本日は早朝より奈良、飛鳥路を巡るツアーに・・・ 橿原神宮、大神神社に参詣してその他各地を巡ったが、後日紹介します。宿泊ホテルより慣れないタブレットより送信。明日はどこに行くのだろうか。
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速谷神社前交差点手前の民家裏手にある権現山北麓の平楽地蔵堂で、御本尊の平楽地蔵は中世の速田大明神に奉仕する供僧寺であった平楽寺の名残りを伝えてくれる地蔵である。以前壁面にシートが張り付けられていることを紹介したが、現在屋根にもシートが被せてあり痛みが進んでいるのであろうか。
堂内に掲げてある昭和初期のものであろうか芳名板には上平良の200余名の寄付名が記されており、昭和25年(1950)のものには上平良その他の240余名の寄付名が記されている。かつてこのように多くの人々に平楽地蔵は信仰、維持されていたのであるが・・・
下関市役所の北側にある下関市立近代先人顕彰館(田中絹代ぶんか館)は大正13年(1924)に旧逓信省下関電信局電話課庁舎として建築されたようである。官庁建築であるが凹リブの入った柱型や塔屋、窓の曲線などモダンなデザインの建築である。近接した旧宮崎商館は明治40年(1907)に建築された煉瓦造りの建物で、先日紹介した旧下関英国領事館が建築された翌年に建築されており、旧下関英国領事館との類似性もあるようである。両施設にそれぞれ下関ゆかりの芸能人田中絹代・木暮実千代の関連資料などが展示されているようであるが時間の関係で見物は出来なかった。
唐戸交差点から少し離れた裏通りにある旧山口銀行本店(やまぎん史料館)は大正9年(1920)に三井銀行下関支店として建築されたようで、後に第百十国立銀行の本店となり山口銀行の創立本店として使用されていたようである。銀行建築を多く手掛けた長野宇平治の設計でギリシャ建築様式を取り入れた意匠のようである。
この通りはかつて銀行街であったようで少し離れたところに中国労働金庫下関支店がある。この労金下関支店は大正8年(1919)に不動貯金銀行下関支店として建築されたようで、その後日本貯蓄銀行、協和銀行を経て、山口県労働金庫・中国労働金庫下関支店となったようである。この銀行も西欧の建築様式を取り入れた意匠でシンプルであるが威厳のある建築デザインである。
開山金岡用兼・2世天翁玄播墓碑
3世三庭龍達・4世大雲守的・5世基外嶺雄墓碑
昨日、廿日市洞雲寺との関わりのある下関市長府の巧山寺を参詣した。廿日市桜尾城を領していた毛利秀元は関ヶ原の合戦後に長府に移封され、荒廃していた長福寺を修営して洞雲寺12世三庭龍達を招いて功山寺の住持とした。三庭龍達は洞雲寺の開山金岡用兼を勧請開山とし、師の13世天翁玄播を中興2世とし自ら3世とした。毛利氏の大きな後ろ盾を失った洞雲寺の住持である13世大雲守的、17世基外嶺雄も長府に移って多くの寺院を開いているのである。 (詳しくは廿日市の文化第20集-洞雲寺特集参照)
地御前の町並みを歩いていると、岡野醤油醸造場に隣接して石川五右衛門を釜茹でしたような大きな釜が上屋を設けられた中に展示されていた。この大釜はかつて醤油醸造に使用されていたものとみられ、大正14年(1925)頃には地御前村で2軒の醤油醸造家があったようである。
この時期に紹介している上平良地区の里山にササユリの花が咲いている。白い花びらに薄いピンクがかった花が多くみられる。この里山では毎年雑木の下樵りをされているのでササユリが繁殖しているのだが雑木林になると絶えてしまうのである。
※ 昨日、当ブログを開設してからトータル閲覧数450万PVの節目を迎えることができました。一般受けするブログではありませんが、多くの方々に訪問・閲覧をして頂き大いに励みとなります。老化防止のために更新を続けるつもりですので、ご来訪・閲覧のほど宜しくお願い致します。
極楽寺道の4丁碑手前に安置されている宝珠を持った石地蔵で、台座石には「立石又兵衛」「宝暦十三癸未六月廿七日」と刻されている。この石地蔵は廿日市町人の立石又兵衛が昨日紹介したお菊地蔵が造立された翌年の宝暦13年(1763)に寄進建立したようである。かつてこの石地蔵も結婚式の際に持ち出されていたようである。
昨日紹介した極楽寺道里程碑の近くにあるお菊地蔵でかつて極楽寺道沿いにあったが西広島バイパスの建設により現在地に移転した。基礎石には建立年とみられる宝暦12年(1762)12月18日の刻銘がある。地蔵さんの頭部が意外と大きく鼻が欠けている石地蔵で、昔、結婚式にこの石地蔵が持ち出されていたと聞いたことがある。お菊地蔵の伝説については看板表示を参照してください。
平良一丁目の西広島バイパス側道脇に極楽寺道里程碑など4基が並べて立てられている。かつての極楽寺道に建立されていたが市街地化と西広島バイパスの建設で極楽寺道が無くなって里程碑などがここに移設された。これらのうちの極楽寺道里程基石碑はかつて広電宮島線の弘法踏切の傍らに建立されていたものが点々としてここに移設されている。 これらの里程碑などについては廿日市の文化第21集(廿日市のいしぶみ)に所収の「極楽寺道三十七丁ぶらり登山」に詳述しています。