平成22年もいよいよ雪日和の今日かぎりとなりました。昨日、交通安全で名高い速谷神社では境内にはすでに露店が数多く並んでおり、門松の組立ても終わって初詣準備万端のようである。
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天満神社境内の随身門前にある狛犬一対で築造年が刻されていないが、西国街道からの参道(現在の表参道)が築造整備された頃に建立されたものであろう。
大阪鈴木と刻されているが何を商っていたのであろうか。狛犬の石質はこの地方で産出する花崗岩ではなく、加工のし易い石質のようであり他地方から移入されたもののようである。
寅年も後わずかとなったので以前に紹介した寅に因んだ蔵飾りを再掲する。
上平良地区にある民家土蔵の蔵飾りと峠地区にある蔵飾りで負けず劣らずの龍と虎の争いを表した龍虎の像である。蔵飾りの構図が良く似ており同じ左官の作品かもしれない。
極楽寺本堂の向拝上に掲げられている短歌額で弘化3年(1846)に奉掛されたものである。
「上不見山 極楽を(越) は(者)る(流)か(可)に思ふ はかな(那)さ(左)よ むね(祢)の内なる(類) 仏見るま(満)で(帝)」と詠われているが、詠者や筆者は定かでない。
天神山にある正覚院の行者堂で以前に紹介した十王堂と並んだ一棟の左堂に役ノ行者像が安置されている。
極楽寺文書によると寛正2年(1462)に役ノ行者堂が建立されたようであり、慶長年間に桜尾城主の毛利元清が行者堂を修繕したとあるが、元清は慶長2年(1597)に病没しているのである。
高畑山からの遠望で手前に町並み化した宮内砂原地区が見え、宮内地区と平良地区の間にあった長尾の尾根は宮園、陽光台団地と化している。
山陽自動車道の速谷高架橋の奥には原地区の一部が見え、画面右端まで細長く平良地区集落があるが団地と一体化したように見える。極楽寺山の裾には宮島サービススエリアがみられる。
昨日紹介した旧美濃地屋敷内にある民俗資料倉の蔵飾りは、従来からある米蔵(上の倉)に設けられている蔵飾りを模したものである。
この米蔵には鳳凰の蔵飾りと反対側には美濃地家の家紋とみられる四方剣酢漿草(片喰)紋があらわされている。
以前紹介した西中国山地の真っただ中にある壮大な屋敷構えの旧美濃地屋敷内にある民俗資料倉の蔵飾りで鳳凰が漆喰細工で造られている。
平成17年頃に旧美濃地屋敷が歴史民俗施設として整備された際に民俗資料倉が建築されて現在の蔵飾りが造られたのである。
原、下ケ原地区と遠くには元原病院・養護学校跡の「ふれあいライフ原」方面を遠望する。
後方山頂のアンテナ箇所が野貝原山で左端付近が中世の古戦場折敷畑山であり、陶勢と毛利勢が明石からこの山一帯や下ケ原地区でも戦闘が行われたようである。左端山中では今秋に熊が捕獲されているのである。
宮島の西端にある御床山の南西部は1980年代に山火事に遭っており、現在でも所々に焼け残った木の株が残っている。
焼け跡には胸高位の羊歯やウラジロがびっしりと繁茂しており、樹木の成長を阻害しているようである。羊歯はかつて羊歯かごを編むのに利用されており、ウラジロは正月の注連飾りや餅の飾りとして利用されている。羊歯やウラジロの中を藪こぎするには体力を消耗しそうである。
宮島の西端にあるあての木浦から230m峰に登る途中の展望岩場からの江ノ尻浦を遠望する。
画像左側には谷から出てきた水が砂洲によってさえぎられて、内側に潮汐湿原がつくられている。干潟には採苗した牡蠣を6ヶ月から1年ほどつるしておく抑制棚がずらりと並んでいる。
宮島の西端にあるあての木浦から230m峰に登る途中の展望岩場からの遠望で、手前にはあての木浦の砂浜がみられその先には大竹市の可部島がみられる。
海の向こう側には大竹市から和木町にかけての石油コンビナート群がみられ、当日は気温が低かったので各所からの白煙がみられた。
友田地区中山にある中世山城の中山城跡で山を削平して曲輪を造り、その周囲に防御施設の堀切や竪堀、横堀などがみられる。
画像では最高所の曲輪と手前に二重の堀切がみられ、手前方面からの攻撃に対する防御施設が設けられている。城主や築城時期など不明であるが中世厳島合戦以前の陶氏と毛利氏の攻防の頃の城とみられている。
天神下の町並みにある小路で人一人がやっと通れるような狭い小路で、江戸期の絵図には丹後屋小路三拾四間と記されている。
丹後屋という商人がいて名付けられたものであろうか。小路を通ると表通りとは違った生活感があふれる場面がみられわくわくするのである。