『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

石組速田神社-2

2011年01月31日 | 廿日市関連


石組速田神社境内の神木に藁蛇神事が行なわれたみられる痕跡が残されているが、風化しているので数年前に行なわれたものとみられる。
当地では藁蛇神事という龍蛇型のものを祀る行事が行なわれているようであるが小瀬川流域や山代地方でみられる山鎮め神事と同じようなものであろうか。

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石組速田神社

2011年01月30日 | 廿日市関連


益田市匹見町石組にある石組速田神社で拝殿の後方には2つの祠が祀られているので、他所の小社が合祀されているものとみられる。
平良地区にある速谷神社は中世から近世には速田神社と称しており、当時速田神社を分祀して祀られたものとみられる。当地は西中国山地の真っただ中であるが、以前に何度か紹介した廿日市から吉和通りの石州往還を経て交流があったものとみられるのである。

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山陽自動車道付近の今昔

2011年01月29日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

上平良地区を通っている山陽自動車道の速谷高架橋付近で向こうに宮島SAがみられる。

下の写真は昭和59年(1984)冬頃の工事中の様子で、ほぼ同じ場所の山上から撮影しており、この頃平良いちごを栽培していたビニールハウスが各所でみられる。

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潮音寺-愛犬の墓

2011年01月28日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

潮音寺山門を入ってすぐの鐘楼脇に愛犬の墓と石造の犬とが設置されていた。
最近はペットを飼っている人が多くいるので愛犬の供養塔を建立され、同寺の愛犬をモデルにした石造の犬が作製されたようである。

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浄厳寺の廃跡-光明寺

2011年01月27日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

廿日市後小路にある光明寺の地は江戸期の地誌によると護念山浄厳寺の廃跡に建立されたようである。
桜尾城主毛利元清の子宮吉丸が天正17年(1589)に早世しており、浄厳寺は宮吉丸法名清厳院浄厳幻了の菩提寺であったものとみられる。毛利氏防長移封に伴って浄厳寺は下関市長府に移って明治時代に大乗寺と改称されている。浄厳寺の廃寺跡に光明寺が建立されたものと思われるが地誌の年代とは相違がみられ疑問点が生じるのである。

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潮音寺-浄土曼荼羅

2011年01月26日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

潮音寺には広島県の重要文化財である「絹本著色浄土曼荼羅」を所蔵されている。

この図は「阿弥陀浄土(当麻)曼荼羅図」と称し、現在当麻寺(奈良県葛城市)にある天平宝字7年(763)の当麻曼荼羅を原本とするようで、浄土宗寺院には多数の作品がみられるようである。当寺の浄土曼荼羅はいくつかの鎌倉初期の作例と共にするところが多いとのことである。

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潮騒が聞かれていた潮音寺

2011年01月25日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

国道2号線沿いにある潮音寺で当寺が建立された頃は、海に面していたから寺名となったものとみられる。

寺裏の小路は中世末期の土手道とみられこれに沿って当初は建立されていた。江戸初期になって金屋新開、高洲新開などが築造され、江戸後期に住吉新開が築造されてから海岸は遥か遠くになったのである。

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火山・海老山から高畑山遠望

2011年01月24日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり

 

五日市の海老山から広島はつかいち大橋方面を遠望すると遠くに大野の経小屋山が見え、手前にうっすらと高畑山がみえる。

以前にも紹介したが、江戸期情報を高速でリレー式に伝達する狼煙(のろし)台がここ海老山に設けられていた。高畑山で火煙を上げここ海老山で中継して広島城下に伝達していたのであるがこの先は不明である。

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手押しポンプが

2011年01月23日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

原地区の民家庭先に昔懐かしい手押しポンプ「津田式ケーボー号」が残されていた。

石積みの井戸上に設置されているものとみられ現在でも雑用水に使用されているようである。昔豆腐の製造販売をしておられたとのことでこの井戸水が使用されていたのかも知れない。

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蔵飾り-亀甲なまこ壁

2011年01月22日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり

  

五日市の町並みを歩いていると民家の土蔵で亀甲なまこ壁の蔵飾りがみられた。

廿日市市及び周辺部では初めて見るものであり、亀甲型の平瓦を張って目地仕上げを漆喰でなまこ型にしたものである。

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舞台石か-長~いカズラ石

2011年01月21日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

原地区の民家庭先に長さ4.2m位で幅70cm位の巨大なカズラ石が5枚置かれており、この石は隣接する畑にあったようで昭和の初め頃に切り出されたそうである。

これらから原石は相当大きい石であったことが類推される。江戸期の地誌絵図によるとこの付近に舞台石が記され、名勝として平石「石面凡拾坪、厚サ三尺余、川成高峰ニ平舞台之如く出張有之候」とあるが現在見当たらないので、この石が切り出されたものとみられるのである。

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光禅寺の原爆慰霊碑

2011年01月20日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり


五日市町にある光禅寺の境内入り口脇に建立されている原爆慰霊碑で、表示板によると七尾中学校吉野誠教諭によるデザインとあり昭和40年(1965)に建立されたものである。
吉野先生は当ブログ主の七尾中学校時代美術の恩師であり、昨年はつかいち美術ギャラリーでは先生の教え子が発起人となって開催された七美会展は盛会裡に終わったのである。

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廿日市鋳物師鋳造作品

2011年01月19日 | 廿日市関連


五日市町にある光禅寺の梵鐘で、江戸期廿日市で鋳造活動をしていた山田貞栄が延宝7年(1679)に鋳造したものである。
この梵鐘の上部中帯にみられる文様は唐草文で、下部中帯の文様は剣菱文の両側に蕨手文を配して図案化した文様である。これらの文様は山田氏の鋳造作品によくみられるものである。

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勝谷酒造のカレンダーが

2011年01月18日 | 「廿日市地区」ぶらり


原地区の民家納屋にかつて地御前地区で醸造されていた勝谷酒造の未使用のカレンダーが無造作に架けられていた。
懐かしい昭和48年(1973)の吉永小百合モデルの着物カレンダーで、これによると勝谷酒造の「勝力」は良く知られていたが「宮島正宗」銘柄の醸造をしていたようである。

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里山ぶらり-のうが高原ホテル跡遠望

2011年01月17日 | 「廿日市地区」ぶらり


平良地区と宮内地区間の里山尾根筋の高台から野貝原山山頂にあったかつての「のうが高原ホテル」の廃墟を遠望する。
「のうが高原ホテル」はレジャー施設の全盛時代に設置されたものであり、大浴場からの絶景の眺望が思い出されるのである。

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