虫所山地区にある助藤集落を河内神社前付近から遠望したものと河内神社に奉納されている昭和19年(1944)頃に写された写真絵馬である。 ほぼ同じ位置からの撮影であるが昭和19年当時はほとんどの民家は草葺屋根であったことが分かるのである。
現在ある中央公民館の地にあったかつての元佐伯郡役所の全景で、昭和45・6年頃の画像である。
元佐伯郡役所は明治20年(1887)に建築されたもので、西洋建築を模したものであちらこちらに和風の意匠がみられた擬洋風建築であった.
内山地区の切石谷にある榊の湯の湯治場跡で、高い所に見えるのが昨日紹介した御湯神社でその下から湧出していた水は竹の樋で右側の大岩上から流れ落ちていたようであるが、現在はほとんど湧出していないようである。
画像中央付近に石積みがみられその向うに大岩があって、右側平坦地に小亭が設けられ湯治客が諸病を療やしていたようである。
内山地区の切石谷にある御湯神社で江戸期に内山の住人が泉源を発見したようで、眼病や皮膚病に良く効くとのことで多くの人が訪れていたようである。
榊の根より湧き出るために榊の湯と名付けられたようで、地域の人の話によると泉源から竹の樋で大岩の上から流れ落ちていたようで、廿日市方面からも一升瓶を持ってきて汲んでいたそうである。
津田内山地区の切石谷の入り口すぐに設置されているかつての岩倉温泉の泉源貯水タンクで、ここから岩倉温泉まで引水されていたようである。
古い貯水槽は国民宿舎岩倉ロッジが開設されたときに設置されたものとみられ、以降水不足を補うために新しい貯水タンクが設置されたものとみられる。かつてこの谷上流部で榊の湯が湧出していたので、ボーリングをして温泉成分がある水(単純弱放射能冷鉱泉)を温泉水として利用していたようである。
津田地区にある八幡神社の少し北方に梅の水といわれる清水の湧出しているところがありかつて多くの人が汲みに来ていたようである。
梅の樹の下より湧出するために梅の水と呼ばれていたようであるが、現在湧出しているすぐ上には道路があって湧出周辺も整備もされていないので良い環境の清水とは言い難い。
県道30号線の明石峠手前の道路法下には旧県道の跡が残っていた。旧県道はカーブの多い道路で明石峠七曲りといわれており、小中?学生の頃バスで通ったときに一度では曲がれないようなカーブがあったのを記憶している。
江戸期の津和野街道を引き継いだ県道津和野線は険悪な道であったので、明治24年(1891)に県道の改良工事が行なわれている。七曲り道路はこの改良工事の道路とみられるが定かなことは不明である。
ベニマンサク湖畔からかすかに見える「おむすび岩」は権現山から尾根筋を東に向かって行くと667m峰すぐ下の巨岩の上にある。ここから下っていくと湖畔に至り667m峰から東の尾根を進むと烏帽子岩に至る。
今にもころげ落ちそうであるがこの「おむすび岩」がころげ落ちたら「おむすびころりん」の物語のようにいかないだろう・・・
権現山の山頂付近は岩山であり山頂以外に平地はほとんど見られないが、山頂手前の登山道脇に割れ石による石積みで平地が造られている。
このような山上に何の目的で造られたのか不明であるが、幕末の長州戦争の際に芸藩は権現山下に砲台を築いており、長州戦争に伴う何らかの緊急施設が設けられたのだろうか。
※ 当ブログを開設以来、昨日ページ閲覧数100万PVの区切りを超えることが出来ました。主に市域を放浪してみたままを記したつたないブログですが、多くの方々のご来訪に背を押され何とか継続することが出来ました。ネタが枯渇状態で次の大台まで頑張れるだろうか・・・
権現山頂からの遠望ですぐ下に佐伯工業団地が見え県道に沿って下峠、中峠の集落、永原の集落が玖島方面に伸びている。
玖島方面の山中には新西広島変電所に伴う高圧鉄塔が沢山みられ、正面には標高1039.8mの大峰山とはるか遠くには標高1004.4mの湯来冠山がかすかにみられる。
ベニマンサク湖畔から標高699.5mの権現山に向かった。平成19年に登ったとき山頂にある祠は今にも崩れそうであったが、屋根が補修されたのか瓦が葺き替えられていた。
古い時代には巨石を御神体としたと思われる瑜伽(ゆが)祠があったようであるが江戸期にはなくなって廃祠と記されている。この祠は現代になって再建されたもののようである。
「おおの自然観察の森」のベニマンサクの紅葉探訪に行ったが少し早かったようである。新聞、テレビ報道されたとのことだろうか多くの探訪者がみられた。
例年10月20日前後が見頃なのでそれを目安にとのことであったが・・・
虫所山地区の虫道集落にある河内神社であるが、神社に至る参道はご覧の通りやぶ化しつつある。
虫道集落は超過疎地で1軒のみ住んでおられ、空き家が1軒残っているような状態なので常時の維持管理はできないのであろう。
昨日は孫と極楽寺山の手無し観音付近の山で松茸を探したが1本も見つけることが出来なかった。極楽寺山には多くの山ガールや中高年の登山者が廿日市参道を登っているのに出会った。
昔は沢山採っていた場所であるが松が老木なのか手入れをしないからであろうか。倒木には沢山のくそなばが生えていたが何んという名前のきのこか不明である。