先日紹介したユウガオを持ち帰り干瓢づくりに挑戦してみた。ユウガオを輪切りにして固い皮を包丁で削り落とし、薄く削っていくのであるが厚くなったり薄くなって切れたりして、均一の厚さのものはなかなか上手く出来ないのである。少しばかり削ったものを天日干しにしてみた。
先日紹介したユウガオを持ち帰り干瓢づくりに挑戦してみた。ユウガオを輪切りにして固い皮を包丁で削り落とし、薄く削っていくのであるが厚くなったり薄くなって切れたりして、均一の厚さのものはなかなか上手く出来ないのである。少しばかり削ったものを天日干しにしてみた。
高知市吸江地区の五台山の中腹に祀られている厳島神社で、元高知城内に祀られていたが明治4年(1871)8月にこの地に遷座されたようである。かつて高知城内には厳島神社をはじめ4社が祀られていたようで、現在は何れかの神社の跡地に小祠が祀られている。
スイカを栽培していてイタチにすべてを食べられたことを以前紹介したが、その後ほったらかしにしていたらスイカの台木が伸びてきて大きなユウガオ3個が出来た。ユウガオは干瓢の原材料のようであるが干瓢づくりに挑戦してみようか。
以前NASAから月の周回軌道チケットを入手したことを紹介したが、明日の午後にフロリダのケネディ宇宙センターから「アルテミス1号」が打ち上げられるようである。「アルテミス1号」に搭載されたフラッシュドライブに記録された当ブログ主名は、共に宇宙空間に旅立ちそのうち月の周回軌道は6日間で、打ち上げから地球に帰還するまでの長い旅路の旅立ちだ ‼
隠岐の島の小さな漁村である岸浜地区に祀られている厳島神社であるが由緒などは定かでない。小さな本殿は大社造りで造られており、拝殿前には社殿風屋根のある石燈籠がみられる。拝殿脇にみられる丸い石はかつての力石ではなかろうか。島後には小社を含め約90ケ所の神社が見られるが厳島神社はこの社のみである。
以前にも紹介したが市域では最高の傑作のひとつである雲文に飛び鶴の蔵飾りのある土蔵を訪ねてみた。母屋は一部崩壊が始まっており土蔵は画像のような状態であった。蔦かずらがなかったら下画像のような雲文に飛び鶴の漆喰細工であるが次第に崩壊にむかっていくのであろうか。
吉和地区の吉和郵便局隣接地で吉和支所複合施設整備の用地造成工事が行われていることを以前紹介したが、現在躯体工事が行われているようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所・吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約するための施設のようである。
早朝ウォーキングをしていると小さな道の端にゴルフボールかと思わすようなクソナバが生えていた。当ブログ主は名前の分からないキノコはクソナバと称しているがこのキノコにも名前があるのだろうが・・・
佐伯地域の中組を通る県道30号廿日市佐伯線を走っていると、道沿いの田んぼに稲にしては大きすぎる株がみられた。何であるのか近所の人に聞いてみるとマコモダケを栽培しているとのことで、当ブログ主は初めて見るものであった。ネットをみると根元が筍状に肥大し緑色の葉鞘を何枚か剥ぎとっていくと、中から真っ白な可食部分が現れこれをマコモダケというようである。
佐伯地域の友和小学校の玖島川向かい土居垣内に広島ドラゴンフライズの練習拠点であるクラブハウス「ドラフラベース」が建築中であった。工事中の建物はメインアリーナ棟のようでバスケットボールのコート、トレーニング室などが設けられるようである。下画像は広島ドラゴンフライズのHPより。
20日の昨日、市役所前の市民プラザで本市の地名にちなみ恒例の「はつかの市」が開催されていた。中世の廿日市は厳島神主家の本拠地であり、佐西の中心地で近郊近在の人達が集まり市は度々開催されていた。集落中心の四辻に祀られていた胡堂(絵図赤丸ケ所)の御開帳の日である20日の市は、信仰心の深かった当時「廿日戎・廿日の市」と特に賑わって次第に廿日市地名が成立したものと思われるのである。下画像は天満神社境内に移祀された現在の胡子神社である。
岩国市の最奥部である錦町宇佐地区にある宇佐八幡神社の本殿脇に祀られている小社で厳島大明神夏焼社と表示されている。江戸期の地誌に宇佐八幡神社の末社として夏焼地区に中御前社がみられ、祭神が市杵嶋姫命で祭日が六月一七日とある。いつの時代かに夏焼地区から当神社に移祀されたものとみられる。
香川県三豊市財田町荒戸上に祀られている厳島神社で祭神は市寸嶋姫命のようである。旧財田町教委の看板表示によると近隣の宝光寺縁起に永正元年(1504)安芸国厳島神主佐長伊豆守道雅がこの地に勧請したと記されているようであるが、文献にはみられないような???の厳島神主名である。境内のタブ樹は香川県自然記念物に指定されているようである。
昨日の絵馬に関連して上絵図は慶応2年(1866)に発行された絵図で本殿後方に本地堂がみられ、横には大カ子とある鐘楼がみられる。(赤丸ケ所)明治元年(1868)の神仏分離令後の明治3年(1870)に発行された中絵図では本地殿や鐘楼がみられない。ところが明治8年(1875)に発行された下絵図では無くなっている筈の本地堂や社大鐘がみられるのである。 「厳島を描いた木版画・参照」