今回、観光ツアーに参加したので興味あるものをじっくりと見るわけにいかず駆け足観光となったので、一支国博物館内も駆け足で外観も小雨が降っており一部しか見ることが出来なかった。 「ガイド曰くツアーは下見であり再度単独でおいでください」
今回、観光ツアーに参加したので興味あるものをじっくりと見るわけにいかず駆け足観光となったので、一支国博物館内も駆け足で外観も小雨が降っており一部しか見ることが出来なかった。 「ガイド曰くツアーは下見であり再度単独でおいでください」
昨日紹介した黒川紀章が設計した一支国博物館は斬新なデザインの建築で、展示もオープン収蔵庫など初めて見るような展示構成であった。巨大環濠集落「原の辻遺跡」は展望台からの遠望とバス車窓から見物した。今日はどこに行くのだろうか。
本日は早朝に出発して壱岐観光に向かった。博多港よりフェリーきずなに乗船したが波が高く一部の人は船酔いされていた。本日は著名な建築家黒川紀章が設計したという一支国博物館を見物した。明日はどこに行くのだろうか。ホテルよりタブレットにて速報送信。
速谷神社の楼門前参道両側にある紅葉や直会殿後方のイチョウなど綺麗に色づいていた。境内には色づいた樹木が多くみられるが、境内にある樹木は桧や銀杏、松、杉、欅、梅や紅葉など74種あるようである。大正13年(1924)の国弊中社昇格造営の際には樹種41種で2223本の献木があったようである。
平良広池地区を散策していると相当以前に伐採された松の切り株上面に笹が生えていた。切り株はもう朽ちかけているようであり斜面に生えている笹が切り株内に伸びて上部に達したのか、宿り笹か? 一寸??の切り株の笹だ。
昨日、紅葉見物のため安芸太田町の深入山麓付近まで行くと、樹木のない深入山を見て登山をしてみたいと連れ添いの希望で急遽いこいの村から登山を始めた。いこいの村から見えた1090m峰が頂上と思っていたが、1152.5mの三角点がある深入山山頂はもう少し先であった。山頂から北方面を見ると臥龍山、恐羅漢スキー場、聖湖の一部、遠くの弥畝山、掛山山系には多くの風力発電がみられた。昨日は祭日であり子供連れなど多くの登山者がみられ、下山は蔵座高原方面に降りた。
廿日市町並みの小路を歩いていると町屋に塀が設けられており一部に不自然な開口部があった。開口部の奥はコンクリートで箱型になっており上部は開いているようである。推測であるが一昔前はここにゴミを出して各戸収集をしていたのではなかろうか。
平良広池地区を散策していると山柿の実とピラカンサの実が鈴なりとなっていた。山柿は熟すとおいしいが種が多いのである。富有柿は山柿に接ぎ木したもので、親が植えていた富有柿は接ぎ木したものが枯れて親木から山柿が生りだした。
元平良小学校体育館で平良小の陽光台移転後は平良体育館として使用されていたが、老朽化のために現在解体工事が始まっており、看板表示では来年3月27日までの工期となっていた。跡地はどうなるのであろうか。此の場所には当ブログ主が小学生の時に木造講堂が建てられ、その後、昭和55年(1980)に体育館(屋内運動場)が建築され平成14年(2002)まで使用されていたものであるが平良小移転後は平良体育館として使用されていた。
日田市豆田町の町並みに一風変わった3階に展望楼が設けられている岩尾薬舗・日本丸総本家と表示された町屋があった。かつて万能薬「日本丸」という薬の製造販売を行っていたようで、現在は岩尾薬舗と日本丸(にほんがん)の製造や販売に関する資料を展示した資料館とされている。岩尾薬舗では各地の伝統薬を販売されており日本丸は販売されていないので、他所の和歌保命丸と翁丸の伝統薬を求めた。
日田市から中津市に向かっていると見たことのないような2階建ての茅葺屋根の民家があった。2階建ての薄鉄板葺きでかつて茅葺屋根の民家は何度か見たけれど2階の階高がこの民家のように高いものは初めてである。2階部分には丸窓が設けられており2階軒下には雲形の持ち送りが設けられた洒落た造りであり、比較的新しい時代に建築されたものとみられる。雲形の持ち送り部分に沿ってボルト接合の方杖は後の時代に設けられたようである。
昨日紹介した三日月の滝の手前付近で広島地方では見たことが無いような屋根型の民家があったが、周囲に雑木が茂っており良い画像は撮れなかった。以前は茅葺屋根であったものが薄鉄板葺きとされているもので、箱棟のケラバ部分には当家の繁栄を祈念しての寿字が表されていた。屋根画像から凡そ下図のような屋根伏せの民家のようであり、どのような間取りとなっているのだろうか。