田んぼの脇の日当たりの良いところでタヌキが日向ぼっこをしており、近寄っても動じることなく動物本来の素早しさがなかった。
良く見ると体中が皮膚病に冒されているようであり体力が落ちていたのであろうか。このような狸にはだまされないぞ!!
住吉土手の桜並木の紅葉は時すでに遅く多くは落葉していたが、土手下の潮廻し向う岸にあるハゼの木は綺麗に紅葉していた。
潮廻しは自然豊かな環境で沢山の水鳥が群れ集っており散歩する人たちの心を和ませてくれる。
杵築城下町にある平成16年に改築されたという米穀店の正面壁面には店の看板となる大黒さんが米俵を担いでいる漆喰細工が目を引く。
二層袖うだつは以前からあったものか改築時に設置されたものかは不明であるが、両側にある袖うだつの正面に鯉の滝登りと酒瓢箪に盃が漆喰細工で表されている。
杵築城下町の町屋にみられる鏝絵で上画像は付属屋のケラバ(屋根下の三角壁部分)に設けられた漆喰細工で飛び鶴と蓑亀が表されている。屋根瓦止は見たことが無いような漆喰細工のデザインである。
下画像は切妻屋根本屋の傾斜の付いた塗込めの軒裏に設けられた漆喰細工で左画像は打出の小槌と福鼠・馬、右画像は打出の小槌と大判小判が表されている。
日出城下町を散策していると龍泉寺境内墓地に滝家歴代の墓と「荒城の月」で知られている滝廉太郎の墓があった。
滝家は代々、日出藩で家老などの要職を務めてきた家で、滝廉太郎は若くして大分市で亡くなり同市の萬寿寺に葬られていたが、平成23年に日出町の龍泉寺に移設されたようである。「滝累世之墓」に葬られ隣接して「滝廉太郎君」の石碑がみられる。
大分市郊外の豊後国分寺跡史跡公園に隣接した大分市歴史資料館で「南蛮屏風の世界-描かれた都市の賑わい」展が開催されており、国崩し(大砲)の複製品が展示してあった。(画像は図録より)
文禄・慶長の役で寺社の梵鐘が供出されたことは資料にみられ、廿日市の鋳物師が国崩しを鋳造していたのではないかと思われるのである。(安芸国廿日市鋳物師の一考察-大砲国崩しの鋳造)参照
原地区にある橋本集会所において同地区で製作活動をされている「原たくみの会」の方々による第9回作品展が昨日と本日16時まで開催されている。
轆轤細工の大盆や斬新なアイデアで作られた轆轤細工、サンドブラストガラス工芸品、繊細に彫り込まれた宮島彫り、花器、動物飾りなどさまざまな陶芸作品、廿日市近辺を描いた絵画などが展示されている。
日出町の町並みを散策していると入母屋造りの民家でケラバ(屋根の三角部分)部分が漆喰塗りで漆喰細工が設けられているものがみられた。
上画像は波紋に跳び兎、中画像は恵比寿と鯛、下画像は波紋・旭日に跳び兎が漆喰細工で表されている。
当ブログ休止中、娘・孫達の小倉帰宅に便乗し、足を伸ばして豊後各地を散策したので種切れを補うために紹介します。
画像は大分駅北口中央通りに面した大分銀行赤レンガ館で、大正2年(1913)二十三銀行本店とし東京駅の設計者として知られている辰野金吾氏らの設計で建築されたようである。現在は大分銀行マネープラザ赤レンガ館として使用されているようである。
先日長年使用していた耕運機とハーベスターを引き取って貰った。遠方からの回収でいくばくかの代金を貰ったのでまだ商売になるものであったのだろうか。
耕運機は親の代からのもので40数年前からあったようであるがトラクターに変わってからは物置に眠っていた。ハーベスターも20数年前から使用していたもので昨年まで現役であった、何れもエンジンは快調であるが当ブログ主と同じようにガタが・・・
西区草津南1丁目の漁民会館敷地内に建立されている安芸国養蠣之碑で、大正期に建立され何度か移転しているようである。
現在の牡蠣養殖は筏からの垂下養殖法であるが、江戸期の延宝年間(1637~1681)に小林五郎左衛門が初期の養殖法である篊建養殖法を創始普及させた功績を称えるための功徳碑である。
牡蠣が美味しい季節になってきたが鰆浜一体の海岸は牡蠣の採苗場で採苗棚がずらりと並んでいる。
8月ごろに牡蠣は産卵・放精をおこなって海中で受精し、採苗棚の採苗連に牡蠣の幼生が付着するようでその後牡蠣筏で養成して出荷するようである。
早春に咲く蠟梅は名前に梅がついているので梅の仲間と思っていたが全く別に属するもののようである。
6月頃に他所で実っていたのでどのような種が出来るのかと思っていたが画像のような種が出来ており、この種から苗をそだててみることにする。
昨年、田んぼの石積みを部分的に積み直したが、今年も続きの部分を積み直すために石垣を崩し始めた。
昔の石積みであり裏込め石がなく土のままで目地にモルタルを詰めただけなので簡単に崩すことが出来る。しかし、積み上げとなると大きな石を動かすのは大変でありどうなることだろうか。