天神山の正覚院境内にある常夜燈で明治23年(1890)5月に設置されたものであり海上安全と大きく刻されている。廿日市の湊には交易のために諸国から商船が入津しており、夜間の入津の目印に見晴らしのよい天神山に常夜燈が設置された。
常夜燈設置の始まりについては、正徳2年(1712)頃には町の経費から天神坊灯明銭が1ケ月10匁、年間120目が支給されており、また、享保21年(1735)頃には西浜町で常夜燈中という維持管理組織が出来ていた。
田んぼの石垣がはらみ出して今にも崩れそうになったので、今冬中に積み直しが出来ればいいと石垣を崩したが、・・・大きな石があり大変な事になったと一時呆然となった。
そこに強力な助っ人の手助けを得て予定より大幅に工事が進んで、長さ約7m、高さ約1.5mの石垣がほぼ完成し天端のコンクリート塗りのみとなった。
天神山の裏手から洞雲寺を遠望する。かつて駅裏から洞雲寺の間には山があったので見ることが出来なかったが、山が取り崩されて遠望できるようになった。
駅裏に住宅などの建物が建ち並ぶとこのようには見通すことが出来なくなるかも知れない。洞雲寺のイチョウの木はすでに落葉しているが裏山の所どころに紅葉がみられる。
天満神社境内の胡子神社は今月20日が祭日であった。この胡子神社はもと中央公民館西側の四辻にあったもので、古くから市場集落のあった地には必ずといって良いくらい集落中心の辻に市神としてえびす様が祭ってあった。
中世廿日市においては度々市立てが行なわれており、廿日の市立てにはえびす様の御開帳もあり、信仰心の深い商人や近郷近在の人々から「廿日の市えびす」といわれ、廿日の市は特別なものとして著名となってそれが廿日市地名の起源となったのではないかと思われるのである。
天満神社の玉垣下の石垣石に数ヶ所の盃状穴がみられ、何らかの石が加工されて石垣に使用されたものとみられる。
このような盃状穴は古い時代から作られているようであるが、何の目的で彫られたものであろうか色々と説は出されているが・・・
何時の時代か不明であるが丸亀酒場と称して家納喜正宗の清酒を醸造しており、天満神社の玉垣によると昭和3年(1928)頃にはこの銘柄名の家納喜のみを使った銘酒家納喜を醸造している。
昭和12年(1937)に銘酒家納喜の銘柄から社名を㈱家納喜酒造と改組されている。
天満神社の石段参道脇に家納喜の前身である合資会社丸亀商店及び創業者である丸亀小六と一族が寄進した玉垣がみられる。
町史資料編によると合資会社丸亀商店は大正11年(1922)に創立とあるが、この玉垣は大正9年(1920)8月に築造されて合資会社丸亀商店とあるので、大正9年以前に創立されたものとみられる。
原地区の川末川に架かる下ケ原橋でこの付近の小字下ケ原によって名付けられたようである。
江戸期の軍記物によると折敷畑山合戦の際に「平良の郷を志し下の原と申す所迄押し下る処へ」とあって、この付近で陶勢と毛利勢が戦ったようである。
津田地区の浜本工芸前停留所脇の山裾に建立されている宝篋印塔であるが誰の墓碑であるのか定かでない。
この宝篋印塔は安山岩製で戦国期から江戸前期にかけて山口県東部から広島県西部にみられる地方色の濃い独特の型式であるが誰が葬られたものであろうか。
原地区のふれあいライフ原(国立原病院跡)から極楽寺山南麓を遠望すると左側の最高所(標高616.5m)が中世の山城星ケ城跡である。
画像中央右側の舌状尾根上(標高260~267m)は高尾山遺跡で、平良地区及び広島湾一帯が俯瞰できる高所に位置し広島湾周辺の典型的な弥生時代後期の高地性集落遺跡である。
廿日市駅前に掲示されている商店などの個別案内地図で懐かしい商店名や新しい商店名などがみられ部分的に書き直されたものであろうか。
地形図とは全く違った描き方がされているのでこれでは案内地図としてあまり役立たないように思われる。
原地区を散策していたら田んぼに懐かしいネセ肥がしてあり、発酵腐敗させて散布されるようである。現在では通常生ワラ腐熟促進肥料を撒いてワラを直接鋤き込んでいる。
昔はワラ、シバ、クサなどを積み上げて発酵腐敗させ肥料としていた。
時折紹介している国道433号線の改良工事で、原地区で最後の区間である原市民センター前から伊勢神社参道口までの間で工事が行なわれている。
コンクリート構築物は学童用のトンネルとみられ、それに接続する歩道工事が行なわれているようで、現在行なわれている工事で完成通行できるようになるのかは定かでない。