佐伯区五日市港の広大な埋め立て地に「かっぱえびせん」のカルビー新広島工場が建築中であった。大規模の工場であり完成後には当市木材港にある広島工場や広島西工場も順次移転され稼働開始となるようである。
昨日ふれた栗谷町の瑞照寺は曹洞宗の寺院で洞雲寺との関わりのある寺である。同寺御教示の歴住帳によると洞雲寺23世霊潭昭澄が瑞照寺伝法1世で、洞雲寺4世の興雲宗繁が当寺開山とされている。昭厳俊亮が瑞照寺中興2世となっており、霊潭昭澄から昭厳俊亮に伝法されたようである。
大竹市栗谷町にある瑞照寺の参道脇の斜面に以前彼岸花が繁茂していたのを思い出して昨日訪れてみた。しかし周辺部では満開となっているがこの斜面の彼岸花は蕾であり咲き時期はもう少し先のようである。
秋掛にはかつて秋掛小学校や秋中保育園があったが、秋掛小学校は平成13年(2001)に閉校となっている。木造校舎がいつ建築されたのかは不明であるが廃校後も昔懐かしい木造校舎が残されており今も活用されているようである。保育園跡は下画像のような状態であった。
浅原地区から山口・広島県道2号を西に向かって行くと秋掛集落がある。かつて秋掛や本郷方面には広電廿日市駅前より広電バスが通っており廿日市とは関りの深かった所である。昭和37年(1962)頃には広島バスセンターから5便往復しており、4便目が秋掛止まりで翌朝の始発便となっていた。かつて賑わっていた町並みも閑散としており以前みかけた特徴ある町家が無くなっていた。下画像の建物は住宅のように見えるが入口上部が洒落た造りとなっており、ベルも設置されているが何の建物(簡易郵便局?)であったのであろうか。
梅雨時期に以前にも紹介したことがある岩国市六呂師大藤にある梅雨左衛門で、江戸期の地誌には「田疇ニ大岩高サ四間程也。岩中ニ一双小蛇有。形烏蛇ノ如ク、白色頭帯。毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ退不。半夏ノ日ニ至テ始テ穴中ニ入ル。郷俗、梅雨座左エ門ト号。・・・」とある。近年は田畑が荒れ地となって近くに行くことが出来なくなっているものと思われる。(上・中画像-2011.07.06撮影)(下画像-2020.06.29撮影)
酷道433号線沿い葛原集落の最奥部に残されている広電バスの葛原車庫跡で以前にも紹介したことがある。この葛原線は昭和38年(1963)6月1日に開通しており、広島バスセンター発(12:15、17:37)~葛原行、葛原発(6:34、14:24)~広島バスセンター行の二便往復があった。何時頃に廃止されたのかは不明であるが、現在はささき観光の代替バスにて川角、上白川方面への便が運行されているようである。
昨日紹介した太陽光発電所から県道461号線を白砂方面に進んで行くと道路脇に馬魂碑が建立されている。碑文によるとこの地は血とり原と呼ばれ近郷近在の馬が集められ血とりが行われたようで、営農生活に貢献した愛馬の霊を慰めるために愛馬会により昭和53年(1978)10月に建立されたようである。
(馬の血とりは冬の間に伸びた爪を切ったり、手足の関節のあたりの内側や上唇と歯の間に焼きゴテをちょっと当てたりするようで、馬の健康管理のために昔から行われていたようである。)
昨日の午前中、五日市港に2隻の車両運搬船が停泊していた。右側の船はパナマ船籍の「アクアマリン エース」で収容力は18772トンDWTで、次の寄港地はシンガポールのようである。左側は「日昇丸」で収容力は5030トンDWTで、次の寄港地は苅田港のようである。
大竹市小方の旧西国街道の苦ノ坂峠手前に残されている逓信省時代の装荷線輪装置用「ケーブルハット」跡で、ケーブル心線による電話回線は通話能力が減衰するために装荷線輪をケーブル亘長1830m毎に設置したようで、「ケーブルハット」はこの装荷線輪装置を収納していた所のようである。
以前に紹介した畑口橋交差点近くにあるレトロな逓信省看板は苦ノ坂の「ケーブルハット」と同じ長距離電話ケーブル関連の施設のようで、これらから長距離電話ケーブルは旧西国街道沿いに設置されたようである。 (資料-東京神戸間長距離電話「ケーブル」工事の概要より)
小瀬川(木野川)沿いの木野集落にある木野小学校跡で平成23年(2011)3月に廃校となったようで、学校跡には体育館が残されており隣接して木野集会所が建てられている。集会所脇には昭和14年(1939)2月11日に寄付建立された二宮金次郎像と昭和51年(1976)に建立された創立百周年記念碑「創造」が残されている。
昨日紹介した宗玄寺の少し上流側の小瀬川(木野川)沿いに比較的新しい校舎の乙瀬小学校跡があった。狭い前庭には昭和62年(1987)3月に建立された開校百周年記念の乙女像が残されていた。
この学校は平成13年(2001)に小瀬小学校に統合され休校していたが平成26年(2014)に廃校となったようである。
江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。