かつて野貝原山の最高所にあった標高733mの三角点の脇に二つに折れた陸軍輸送港域標石があり標石には「陸軍輸送港⇔標」「昭和十五⇔日」「陸軍省」「第五三号」と刻されていた。(⇔折れ埋設で一部読めず)三角点は平成元年頃に他所の標高719.2mケ所に移設されており、朽ちかけた標木と陸軍輸送港域標石が残されていたが太陽光発電所のために山は掘削されて埋没したものとみられる。
かつて野貝原山の最高所にあった標高733mの三角点の脇に二つに折れた陸軍輸送港域標石があり標石には「陸軍輸送港⇔標」「昭和十五⇔日」「陸軍省」「第五三号」と刻されていた。(⇔折れ埋設で一部読めず)三角点は平成元年頃に他所の標高719.2mケ所に移設されており、朽ちかけた標木と陸軍輸送港域標石が残されていたが太陽光発電所のために山は掘削されて埋没したものとみられる。
折敷畑山に建立されている上画像の陸軍輸送港域標石には「陸軍輸送港域第二区標」「昭和十五年六月十日」「陸軍省」「第五四号」と刻されており、黒折地区の道路脇に建立されている中画像の標石には「第五五号」と刻されている。これらの標石が建てられる以前には下画像の標木が建てられていたのである。標木には「昭和十五年五月二十日」とあり他の表記は標石と同じであった。
陸軍輸送港域軍事取締法は昭和15年(1940)4月2日に公布され東は坂村から西は大野村に至る広島湾後背地とその付近の海面が陸軍輸送港域に制定された。この区域内では色々な禁止事項や制限などが行なわれていたのである。
何度か紹介している上平良大原地区に祀られている都地蔵で、宝暦4年(1754)正月に地域の人達とみられる5名が願主で建立されている。由緒は不明であるが近くを流れる都井手の守り地蔵であると先人から聞いたことがある。大正期の地誌には「按ズルニ往古阿岐国庁ノアリシ地ノ遺物ナランカト思ハル」と首を傾げるような記述もある。
この地蔵さんがある用地は一般県道廿日市環状線の用地内となっており先行きはどのようになるのであろうか。
ウォーキング途中の道路に沢山の実が落ちており、何の実であろうか調べてみようと少しポケットに入れた。道路沿いの長野川向うを見ると背の高い木があって実をつけており、ネットで調べてみると栴檀の木であることが分かった。当ブログ主が小学生の頃運動場に大きな栴檀の木があったのが思い出された。
羅漢渓谷の小瀬川沿いにある雪が所々残る旧国道を歩いていると道脇に石仏が祀られたお堂がみられ、石仏には天明八年(1788)申九月と刻されていた。人里から離れた山中であり江戸期の地誌によると栗栖村の山中で木地屋が稼業していたことが記されているので、天明の飢饉の際資力のあった木地屋によって建立されたのではなかろうか。
羅漢渓谷の小瀬川沿いの国道186号線で山が迫って拡幅不能ケ所は別ルートで開通しており、雪の残った旧国道を久しぶりに歩いてみた。国道時代名残りの国道186号ルート標識と注意標識が残されていた。旧国道脇にはバブル期に設けられたものであろうか庭園風に造られた某店の天然水(湧水)汲み場があるが現在は訪れる人もないようで荒れ気味である。
先日紹介した謎の石像については帰り際に見たので、再度訪れてカフェテラス北山のオーナーにお尋ねしたが、前所有者時代のもので良く分からないとのことであった。宮崎県や鹿児島県でみられる田の神像のようであるが古い時代のものではなさそうだ。
カフェテラス北山のカシミールカレーは具の肉や野菜もゴロゴロと大粒であり、スパイシーな香りとコクと深みて汗をかきながら美味しく頂き癖になりそうな味である。
昨日紹介したかつて藤掛尾城跡があった藤掛山の尾根筋が旧平良村・宮内村境であり、岬先端部の国道脇に明治33年(1900)12月両村長の立会でこの標石が建立された。(下地図赤丸ケ所)現在は藤掛陸橋下の市道旧国道線脇に移設建立されている。
串戸2丁目の県道廿日市港線の側道脇に藤掛尾城跡碑が建立されていた。かつて標高38mの藤掛山には藤掛城跡(藤掛尾城跡)があったが都市計画道路と藤掛ハイツ造成のために削平されて消滅しており城跡(城遺構)はないのであるが・・・ (藤掛尾城については「桜尾城とその時代」「廿日市町史通史遍(上)」参照)
ウォーキング途中の山裾で近接したところに三種類の羊歯植物がみられた。上画像はシダカゴを編む羊歯である。中画像は正月飾りに使用するウラジロで下画像の名称はなんというのであろうか。何れの羊歯の正式名称は不明である。
大野3区集会所の裏手に延命寺の末寺で無住の蓮華寺観音堂があり、入口脇には流転の喚鐘が吊り下げられている。この喚鐘は文化4年(1807)に鋳造されたもので、銘文によるとどのような経緯を辿ったのかは不明であるがイギリスに渡っており、関係者の尽力により平成4年(1992)に当寺に里帰りした喚鐘のようである。
妹背の滝は夏時期には滝が轟く音を響かせているが冬時期は水量が少なく優しい滝である。江戸期の地誌には雌雄滝と記されているが、大正期に妹背の滝と称されるようになったようである。滝の傍には弘法大師を祀ったとみられる堂がみられる。
大野支所が新築されていることは知っていたが昨年は色々とあって放浪できなかった。久々に訪れてみると支所建物の敷地内には「まちの駅」の建物が建てられており、現在外構工事が行われていた。「まちの駅」は今年4月に運用開始のようである。
当ブログ主宅で食するだけの椎茸栽培をしているが、腐朽などで毎年少しずつホダ木を補充している。大きなドングリの木(クヌギかコナラだろう)だと運搬が大変なので細めの木を切ったら11本ばかりのホダ木が取れた。春になったら植菌する予定である。
ウォーキング途中で田んぼの脇に昔懐かしい瓦焼きのコタツと下部が壊れた土製アンカが置かれていたことを以前に紹介したが、現在田んぼは休耕田となっており畔縁にそのまま残されていた。コタツは中の土製火入れ函に灰を入れ炭火を埋めて、コタツの上に直接コタツ布団をかぶせたり、木製のヤグラの上にコタツ布団をかぶせていたものであるが・・・