津田地区を走っていたら周囲の田んぼとは違った色の田んぼがあり、穂の色をみると古代米の黒米のようである。黒米は各遺跡から出土する木簡に黒米と記されているが、どのように使用されていたのかは定かでないようである。この黒米はどのように使用されるのであろうか。 古代米であるが石包丁での刈り取りでなくコンバインで刈り取られるのであろう。
津田地区を走っていたら周囲の田んぼとは違った色の田んぼがあり、穂の色をみると古代米の黒米のようである。黒米は各遺跡から出土する木簡に黒米と記されているが、どのように使用されていたのかは定かでないようである。この黒米はどのように使用されるのであろうか。 古代米であるが石包丁での刈り取りでなくコンバインで刈り取られるのであろう。
以前に津和野街道の道しるべ碑を紹介したが隣接して逓信省看板がみられた。この看板をみていくと看板が設置された時代を推定する文言は遞信省と電信法のみである。逓信省は明治18年(1885)に設置され昭和18年(1943)11月1日に逓信省と鉄道省で運輸通信省になっている。戦後の昭和21年7月1日から逓信院を廃止し逓信省が再設置されていたが昭和24年(1949)6月1日に郵政省と電気通信省で逓信省は廃止となっている。(アジア歴史資料センター資料より)
看板の旧字体、右横書き、カタカナ表記などから昭和18年(1943)11月1日に逓信省廃止以前に設置されていた後期高齢の看板ではないかと思われるのである。
宮内地区の市道串戸畑口線沿いの法面に祀られている馬頭観音であるが堂の屋根が壊れていた。この付近は西国街道から津和野街道が分岐するところで、また砂原から津和野街道のバイパス的な道が出会うところでもあった。多くの小荷駄馬が行き来していたものとみられ、この地で行き倒れた馬を供養するために馬頭観音が安置されたものとみられる。
俵の端を横縄で縛って男結びとして両端を縛る。縦縄の準備として底部の交差部分は装飾結びとし、4方向に化粧編み紐を潜らせ両横繩を一周して他端の化粧編み紐を潜らせて先端部分を仮縛りとしておく。中央部分を横繩で縛り男結びとしてこれで俵の単体が出来上がり6俵を製作する。
昨日紹介した扇新開土手沖では干潟での採苗棚による牡蠣の採苗が行われているようで、採苗棚がずらりと並んでいる。8月ごろにカキは産卵・放精をおこなって海中で受精し、採苗棚のホタテ貝殻で作られた採苗連にカキの幼生が付着するようである。筏養殖以前は篊建養殖が行われていたようで海田市式、草津式、仁保式などの篊建養殖法があったようである。
地御前沖の扇新開は江戸後期文化13年(1816)に築調されており、潮廻しは樋門によって満潮時の海水をせき止め、低地の排水を一時的に貯水して干潮時に排水するように設けられたものである。
原地区橋本に祀られている辻地蔵盆が昨夕近所の人たちによって行われていた。当ブログ主が子供の頃の地蔵盆は原地区をあげての盛大な行事で盆踊りや子供相撲などが行われていた。最大の呼び物は刻んだ麦わらの中に入れられた当たりくじを探す催しで、最終バスが通り終わると道路いっぱいに麦わらが撒かれ、それを必死になってかき集めて当たりくじを探していたのである。
地御前の街並みを久しぶりに歩いてみたら昭和60年(1985)に現地調査をさせて頂いた町屋が取り壊されて、町屋跡には建売住宅であろうか町並みには似合わないようなデザインの建物が2棟建てられていた。かつて地御前神社の門前町などとして成立した地御前の街並みも社会変化や生活様式の移行により町屋独特の家並みは次々と消滅している。
河野原講中倉庫
二重原講中倉庫
昨日は取り壊されていた講中倉庫を紹介したが、上平良地区で現存している講中倉庫は河野原講中と二重原講中の倉庫がある。しかし倉庫内の什器類は時代の変革により使用されていないものとみられる。
袋状になった中に詰め物をするためにビニール袋を入れスクモ(籾殻)を詰め込んで、化粧編み紐を編み始める。一周目は薦の端編み紐の内側を4目毎交互に編み紐を通して結び、二周目からは薦の片端を少し折り曲げなから文字で表すのは難しいので画像で編み方を見てほしい。中心部まで編んで結び俵状になった。
※ 昨日、当ブログを開設してからトータル訪問者数80万IPの節目と先日は閲覧数400万PVの大きな節目を迎えることができました。一般受けするブログではありませんが多くの方々に訪問・閲覧をして頂き大いに励みとなります。老化防止のために頑張りますので今後ともご来訪・閲覧のほど宜しくお願い致します。
県道294号虫道廿日市線の可愛川に架かる速谷橋の架替えのための準備工事で、歩道橋の架橋工事が行われているようである。9月上旬より道路の通行止めが行われるようであり、速谷橋の取り壊しが始まるのであろうか。平成33年3月末ころに通行出来るようになるようである。
下平良地区の可愛川に架かる七尾橋袂の墓地脇に祀られている流れ薬師で道挟薬師ともいわれているようである。堂内には本尊の他に三体の石仏がありこれらの石仏は昔結婚式に持ち込まれたもので返還地不明のものを持ち寄ったもののようである。大正期に記された地誌に時代不明の大洪水で川末から薬師如来が流されて下平良に至りこれを流薬師と称すとあるが、川末から流れてくると形が無くなるのでは・・・伝説は伝説として。