当地域ではぼちぼちと田植えの準備が進められており、かつて田んぼの水捌け口に麦藁や稲藁で作ったムナクト(ミナクト)が設けられていたが今見ることが無い。以前通りがかりでムナクトを作っておられ教えて貰ったのを思い出して作ってみたがうまく出来なかった。(下画像)
当地域ではぼちぼちと田植えの準備が進められており、かつて田んぼの水捌け口に麦藁や稲藁で作ったムナクト(ミナクト)が設けられていたが今見ることが無い。以前通りがかりでムナクトを作っておられ教えて貰ったのを思い出して作ってみたがうまく出来なかった。(下画像)
ウォーキング途中の宮園小学校の法面に繁茂している茅萱(チガヤ)の花穂が今や綿毛のようになって種子を遠くに飛ばせていくのであろう。新芽の頃はズボーナといって甘いものに飢えていた子供の頃チューインガムの代用としてこれを噛んでいたことを思い出すのである。
ウォーキング途中にある麦畑で先日紹介した時にはまだ葉や茎が緑色であったが、もう熟れて刈り取りはもうすぐのようである。麦畑は格好の餌場と多くの鳥がやって来るそうである。この小麦を使用して味噌を作っておられるようであり手作り味噌を頂戴して美味しく頂いた。
ウォーキング途中の原伊勢神社一の鳥居を過ぎた参道脇にあるツツジであるが、見たことが無いような細長い花びらであり何という種類のツツジであろうか。
先日来紹介している玖島小学校跡の校庭片隅に百年記念碑と閉校記念碑が残されていた。百年記念碑は明治6年(1873)に玖島小学校の前身である有護舎が創立されて昭和48年(1973)の百周年記念に建立されたようである。閉校記念碑は平成27年(2015)3月31日の閉校に伴って建立されたようである。
時折り紹介している廿日市17代目桜島大根と廿日市7代目切葉松本地大根の種を採取した。引き抜いた右側が桜島大根で左側が切葉松本地大根であるが隣接して栽培しているので両交配してこのようになった。来季には廿日市18代目桜島大根と廿日市8代目切葉松本地大根を栽培する予定である。
先日来紹介している「玖島花咲く館」のくじま知ルーム(歴史展示資料室)のショ-ケース内に懐かしい廿日市の銘酒であった家納喜酒造の「家納喜」磁器酒樽・桝酒と地御前の銘酒であった勝谷酒造の「勝力」盃が展示してあった。
昨日紹介した玖島花咲く館内のくじま知ルーム(歴史展示資料室)のショーケース内に、大正15年(1926)頃玖島で酒醸造が行われていた資料が展示してあった。玖島酒造合資会社が弥栄菊を醸造していたようであるが、展示資料以外に詳しいことは定かでない。
昨日紹介した玖島小学校跡の校舎は玖島の里づくり交流拠点施設「玖島花咲く館」として活用されている。旧校舎1階にはくじまルシェ、カフェ玖島学園、くじま知ルームなどがあり、くじま知ルーム(歴史展示資料室)では旧小学校で使用されていたものや教室内の一部が復元、玖島出身の大田洋子、枝正義郎などの資料展示、地域で使用されていた民具などが展示されていた。
平成27年(2015)に閉校した玖島小学校跡で元校門の左側門柱には「玖島小学校/玖島中学校/津田高校玖島分校」、右側門柱には「玖島学園」とあり、昭和27年(1952)頃に保育園、小学校、中学校、高等学校分校が揃っており玖島学園と総称していたようである。現在、玖島小学校跡は玖島の郷づくり交流拠点施設「玖島花咲く館」として活用されている。
ウォーキングの途中に目の前に小動物が現れたがカメラを準備する間に移動して良い画像は撮れなかった。撮れた画像からネットなどによると毛色は背側が灰褐色や褐色などで、腹部と四肢は黒っぽく両眼の周辺は黒褐色なのでニホンアナグマのようである。
原地区をウォーキングしていると「原どろんこバレー」のポスターが掲示してあった。コミュニティ推進協議会・どろんこバレー実行委員会の主催で今月29日に原小学校プール脇の田んぼで行われるようである。まだ田んぼは草もぐれであるが・・・
ウォーキングの途中に2ケ所の麦畑があり上画像の麦畑は刈り取り間近のようであるが、下画像の麦畑は葉や茎が緑がかっているので刈り取りはもう少し先のようである。当ブログ主が子供の頃は麦の取入れが終わってから田んぼの準備をしていたのである。
木地屋の人達は惟喬親王を業祖と仰いでおり親王に随伴した人達の末裔として菊の御紋を使用するようになったものとみられ墓碑に刻されている。画像の木皿は西中国山地で作られたもので、直径9cmの木皿で菊弁は上から16弁、15弁、14弁、13弁と様々あり、木地屋自ら使用していたものか製品として作られたものかは定かでない。
先日来紹介している廿日市の挽物細工の源流の一部は西中国山地で稼業していた木地屋が移住して町木地屋になったことが史料などから伺うことができるのである。画像は西中国山地の木地屋が使用していた轆轤(上:匹見、中:吉和、下:戸河内で使用)と山県地方で制作したものとみられる木盆である。 (廿日市の文化第24集 西中国山地の木地屋-木地屋の足跡探訪を中心にして- 参照)