原地区をウォーキングしていると道端のあちらこちらにヒャクニチソウ(百日草)の花が咲いていた。子供の頃この花をヘイタイバナと聞いたことがあり鮮明に覚えている。なぜヘイタイバナと言われていたのかは定かでない。
原地区をウォーキングしていると道端のあちらこちらにヒャクニチソウ(百日草)の花が咲いていた。子供の頃この花をヘイタイバナと聞いたことがあり鮮明に覚えている。なぜヘイタイバナと言われていたのかは定かでない。
広電宮島線の以前の廿日市駅前にあったマキノバス廿日市営業所跡で昭和18年(1943)から昭和29年(1954)までは広電バス廿日市営業所があった。当ブログ主が小学生のころ山田漬物店のある場所が広電バスの廿日市営業所で、右端の螺旋階段があるところに車庫があった。ここが当時のバスセンターで水内・原・吉和・玖島・秋掛・本郷線などが発着していたのである。 (画像-ふるさとの写真集より)
ウォーキングしていると道路脇に蔓性のノブドウ(野葡萄)があった。紫、空、白、緑色など色々な小さな球状の実を付けておりカラフルで美しい。ノブドウはイヌブドウ(犬葡萄)、カラスブドウ(烏葡萄)とも言われているようである。
6月7日に田植えならぬ畑植えをした陸稲の一昨日の状態であるが畑作りが悪かったのか生育はあまりよくないようだ。水稲はぼちぼち穂が出始めているがこの陸稲はいつのことになるのだろうか。陸稲の苗が2ケ所枯れたので水稲の苗(赤〇)を植えたけれど陸稲と同じように育っているのである。
何十年ぶりであろうか宗像市の宗像大社に参詣した。宗像大社は天照大神の三柱の御子神が祀られているようで、沖ノ島の沖津宮に田心姫神、大島の中津宮に湍津姫神、参詣した辺津宮に市杵島姫神が祀られているようである。宗像大社と同じ御祭神が厳島神社にも祀られており、厳島神社のHPによる御祭神の市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命が祀られているようである。神宝館には沖ノ島からの出土品が数多く展示されている。
合掌造り民家
二棟造り民家
くど造り民家
鉤屋造り民家
高床式平柱小屋
苑内には、富山県東礪波郡利賀村から移築した「合掌造り民家」、熊本県菊池郡泗水町から移築した「二棟造り民家」、佐賀県杵島郡白石町から移築した「くど造り民家」、福岡県小郡市坂井から移築した「鉤屋造り民家」、長崎県下県郡椎根(対馬)から移築した「高床式平柱小屋」があると宮地嶽神社のHPにあった。
各地から集められた民家村をと期待していたのであるが・・・ 茅葺屋根の民家は見物出来ないようなものもあり、画像のような維持管理が行き届いてなく朽ちていくのを待っているような状態のものもみられた。「高床式平柱小屋」は以前紹介した対馬の石屋根倉を移築したものである。
福津市にある宮地嶽神社を参詣した。門前町を過ぎ長い石段を登りきって振り返ると玄界灘に続く長い参道がみられる。参道の先に浮かぶ相島(当日はかすんで見えなかった)に1年の内2回光輝く夕日が沈むようで「光の道」として近年大きな注目を集めているようである。拝殿前からは本殿を見ることが出来ないが拝殿横を廻っていくと黄金色屋根の本殿がみられる。
正平21年(1366)に博多講衆16名が厳島神社に奉納した釣燈籠の複製品が展示してあった。瀬戸内海を行き来していた博多商人達が航海の安全を祈念して奉納したものであろう。厳島神社にある釣燈籠のうちで最古の紀年銘が刻されているもののようであり県の重文に指定されている。(厳島神社釣燈籠画像-広島県文化財解説図録より)
志賀島で発見された「漢委奴國王」金印を以前レトロな煉瓦建物の福岡市立歴史資料館(現在福岡市赤煉瓦文化館)で見たことがあるが、このたび30年ぶりに福岡市立博物館で見物した。以前見た記憶も薄らいでおり、展示されている金印が意外と小さなものであったのにはびっくりした。以前求めた図録をみると印辺2.347cm、総高さ2.236cmのようである。志賀島の発見場所とされる地に行ったことがあるが画像が見当たらない。(金印画像-「漢委奴國王」金印展図録より)
九州国立博物館からの連絡通路を通って久しぶりに太宰府天満宮を参詣した。炎天下にもかかわらず日曜日で盆休み最後の日であったので沢山の参詣者がみられた。参詣していると儀式殿で結婚式を挙げられた新婚さんと親族の方々が参詣者の拍手に送られ拝殿前に進まれて参詣をされていた。炎天下を正装されて進まれさぞかし暑かったであろう。
昨日は太宰府にある九州国立博物館で開催されている室町将軍ー戦乱と足利15代展を・・・ 足利将軍というと足利尊氏、金閣寺の義満、銀閣寺の義政、鞆幕府の義昭くらいしか知らないが15代あったとは知らなかった。ホテルから更新。今日はどこに・・・
電卓を購入するまでは掛け算と割り算を計算尺でし、足し算と引き算は算盤でしていたが計算尺では位取りを間違うことがあった。計算尺では正確な数値が出せないので、正確な数値が必要な時はタイガー計算機をガリガリと前後に回して算出していた。電卓の登場で計算尺・算盤・タイガー計算機の出番は無くなって物入れ行きとなった。