地御前神社社殿前の石鳥居は明治31年に宮島口駅前の参道に建立されていたものであるが道路拡幅により撤去され、大正4年に3,500円の費用で地御前神社に移築されたものである。石鳥居の柱には寄進者である厳島の住民22名の名前が刻されている。更新の活力になります! ポチッとね!
地御前町並みの町屋に設けられている出格子で、出窓のように本屋の柱より持出したもので地御前地区では数軒に残されている。出格子は町屋独特の装飾的な要素を与える装置で、かつての町並みの景観を彷彿させる。更新の活力になります! ポチッとね!
高見川沿いに遡って船倉山に向かう途中の登山道脇には戦時中松の木に切り傷をいれて松脂を採っていた跡が各所で見られた。松脂も松根油等として増産し液体燃料にしていたようであり、現在のバイオ燃料の先駆けではなかろうか。更新の活力になります! ポチッとね!
平良地区の元平良小学校下にある旬菜「蔵」で、打ち水のしてある石段を上がってゆくと徐々に懐かしい空間に入り込んでゆく。店内には日本庭園の中庭があり素材にこだわった懐石料理を落ち着いた雰囲気でゆっくり味わえる日本食処である。更新の活力になります! ポチッとね!
地御前の町並みを歩いていると土蔵を利用された美容院があった。社会変化や生活様式の多様化によってかつては収穫物の収納や什器類、衣装類などの保管などをし富の象徴であった土蔵はいまや機能が失われて取り壊されつつあるが、ここの土蔵はうまく再利用をされている。更新の活力になります! ポチッとね!
昨日の夕方近所の電線に数多くのムクドリが集結していた。ギャーギァーとうるさい鳴き声でしばらく留まっていたが今晩のねぐらへといっせいに飛び去っていった。更新の活力になります! ポチッとね!
高見川沿いに遡って巨大な岩塊がそそり立つ襄ケ嶽を横目に通り過ぎ、船倉山に向かう途中の559峰手前登山道脇に3本のドラム缶が放置されていた。どのような目的で使用されたものか不明であるが自然の山には不似合いだ。更新の活力になります! ポチッとね!
宮島桟橋待合所前広場の前面に潜龍門という小さなトンネルが見られる。岩鼻に設けられたふさわしいネーミングである。当時、要害山の岩鼻先は海岸で長浜方面へ行くために設けられたもので、昭和40年代に地先海岸が埋め立てられて現在の桟橋待合所一帯の用地や道路が築造された。更新の活力になります! ポチッとね!
津田地区の町並み中央付近にある旧広島法務局津田出張所の建物で昭和50年代前半に廃止となって、その後昭和55年から佐伯森林組合の事務所として使用されている。玄関ポーチなど昔の官庁建物の片鱗が伺われる。更新の活力になります! ポチッとね!
JR廿日市駅のプラットホーム上屋が古レール使用していることを以前紹介したが、跨線橋(高架橋)も古レールを使用して造られている。跨線橋の各部分を良く見ると1934及び1935の浮字がみられ、これは昭和9年(1934)と昭和10年(1935)に八幡製鉄所で製造されたレールであることがわかり、線路に使われたレールが後に跨線橋として転用されたのである。更新の活力になります! ポチッとね!
飯の山集落でかつて商店を営んでおられた家の前にレトロなペプシコーラのロゴマーク看板が残されている。超過疎化、高齢化で商店経営も成り立たなくなってそのままになっているものとみられる。更新の活力になります! ポチッとね!
高見川沿いに遡って船倉山に向かう登山道の途中正面に巨大な岩塊がそそり立つ襄ケ嶽が聳える。岩塊の割れ目からは樹木が生えており、成長が抑制された樹木と岩塊は素晴しい景観をかもし出している。更新の活力になります! ポチッとね!
上平良地区にある民家土蔵の蔵飾りで亀に乗った浦島太郎が漆喰細工で表してあるが、後世に素人の手が入ったものとみられる。唐破風状の小屋根上にある鬼瓦部分には梅鉢文が表してある。更新の活力になります! ポチッとね!
21日は大寒で朝夕寒い日が続いているが路傍の石仏さんもマフラーを巻いてもらっており、里人の優しい心遣いに微笑ましくおもわず合掌。更新の活力になります! ポチッとね!
現在全国いちじく栽培の約9割は桝井ドーフィン品種である。明治期宮内出身の桝井光次郎氏は米国より持ち帰ったドーフィン品種のいちじくを桝井ドーフィンとして全国普及に尽力され日本一の品種となったそうである。この石碑は自宅前の庭園に設置されているが現在は事業を縮小されているようである。更新の活力になります! ポチッとね!
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