秋の収穫が終わったので英気を養うために十何年ぶりであろうか浜田市金城町の美又温泉を訪れた。ツルツルの湯は一度入ったら忘れられない肌触りであり美肌の湯と言われているようである。美又川沿いの温泉街入口には足湯が新しく設置されており、5~6軒位であろうか温泉宿が並んでいたが日曜日にもかかわらず温泉街は人気もなく閑散としていた。
今は山に入ってハゼ杭やナル丸太を作る人はいないようで、当ブログ主も親時代のハゼ杭やナル丸太は老朽化してきたのでアルミ三脚にナルは鋼管を使用している。原地区をウォーキングしていると上画像はハゼ杭に角材が二股で使用されておりナルは竹材が使用されていた。下画像もハゼ杭が角材であり二股の交差部分はボルト締めとされておりナルは鋼管が使用されていた。
原地区をウォーキングしていると以前当ブログ主がしていたハゼの組み方より違った方法でされていた。二股のハゼ杭が主体で等間隔に配置されてナル丸太を掛け渡して、長手方向に抗するためにナル丸太の中央付近にタスキ掛けのハゼ杭が縛り付けてあり、二股のハゼ杭の片側に長手方向に抗するはぜ杭が縛り付けられていた。
原地区をウォーキングしていると民家の納屋に懐かしい竹で編まれたメゴが置かれていた。親たちはコクバ(松の落葉)やその他の落葉、切り藁などを入れて背負って運んでいた。下画像は当ブログ主が以前に先人から教えてもらいながら作った小型(直径28cm、高さ30cm)のメゴであるがもう作り方を忘れてしまった。
幕末期に黒船の来襲に備え松江藩は昨日紹介した馬着山に遠見番所を設けたが鳥取藩は境水道入口に台場を設け、土塁の上に8門の大砲を据えたようである。台場周囲の土塁は残されているが砲台跡などは見られず、土塁の上には先日紹介した美保関灯台より3年早く設置された山陰最初の木造六角洋式灯台が復元されている。また、昭和2年(1927)8月24日、美保関沖で大日本帝国海軍の夜間演習中に起こった艦艇の多重衝突事故での犠牲者慰霊碑が建立されている。
美保関は古くから海上交通の重要な地で、美保の関所が設けられ海関として賑わいに伴い次第に美保関の地名化したようである。美保神社の鳥居近くから仏谷寺に向かう青石畳通りと称されている道沿いには旅籠や船問屋、店舗、遊郭などが軒を連ねていたようであり、各家の屋号などが表示されていた。石畳の石材は地元で産出される森山石が多いようで、ほかに宍道町方面で産出される来待石と北前船で運ばれた越前の笏谷石もあるようである。
仏谷寺の門前には後鳥羽上皇・後醍醐天皇の行在所跡と表示されており、遠流の島(隠岐国)への配流までの風待ちや潮待ちの滞留所としての役割を果たしてきたようである。
ウォーキング途中、山裾の樹木に見たことのないような実がなっていた。この実は宝珠のような形状で直径4.5cmくらいであり、中には硬い種が5ケ入っていた。何という樹木の実であろうか?
島根半島の美保関町にある檜皮葺の美保神社を参詣した。拝殿は切妻造りの妻入りで、本殿は大社造りの2棟が並んでおり左右殿の前面には片流れの向拝が設けられている。二殿連棟の珍しい社殿形式で「美保造」又「比翼大社造」といわれているようである。本殿の右殿(画像左側)には男神が祀られており先端が垂直に切断された男千木で、左殿(画像右側)には女神が祀られているので先端が水平に切断された女千木である。
松江市美保関町地区の国道431号沿いで高ハゼ組みの稲掛けが3ケ所でみられた。その内の1ケ所でハゼ組みは丸太と竹で5段掛けに組んであり、稲が掛けられているものは日当たりを良くするためか少し傾けられているようである。
原地区をウォーキングしていると以前当ブログ主がしていたハゼの組み方より違った方法でされていた。二股のハゼ杭が主体で等間隔に配置されてナル丸太を掛け渡して、長手方向に抗するためにナル丸太の中央付近に長手方向にハゼ杭を斜めに交互打ち込んで縛り付けたものであった。