立岩ダムの人造湖の大部分は廿日市市域にあるが堰堤部分は安芸太田町に属している。立岩ダムには瀬戸滝やニノワラのリュウズなど中国山地からの清流が流れ込んでいるが、湖面にはアオコが発生して一面を覆っていた。
人造湖は龍神湖と名付けられているようであるが訪れる人も無くほとんど知られていないようである。
立岩ダムの人造湖の大部分は廿日市市域にあるが堰堤部分は安芸太田町に属している。立岩ダムには瀬戸滝やニノワラのリュウズなど中国山地からの清流が流れ込んでいるが、湖面にはアオコが発生して一面を覆っていた。
人造湖は龍神湖と名付けられているようであるが訪れる人も無くほとんど知られていないようである。
十方山系から立岩ダムに流れているニノワラ(二の原)谷にあるニノワラのリュウズ(二の原の龍頭)で三段の滝のようである。
立岩ダム沿いの県道296号線に架かる二の原橋のすぐ上流にある滝で、さらに遡って行くとハシゴのリュウズがあるようである。
涼を求めての瀬戸谷といえば十方山系を源流として流れ落ちる瀬戸滝であり、ここから落ちる水により天然のドライミスト装置のように涼風が暑さを忘れさせてくれる。
数年前には滝上から滝壺を見たことがあるが、滝は見上げてみるものである。
毎日うだるような暑さを逃れてつかの間の涼を求めて、十方山系が源流の瀬戸谷を訪れた。渓谷には樹木が繁茂して日差しは遮られ谷を流れる冷風に真夏の暑さを忘れさせてくれる。
渓谷の見所である三連橋の一部が落石か倒木で破損しているが応急措置が施されて通行には差し支えない。
昨日紹介した教覚寺の鐘楼門の両側に続く塀の基礎が通常のものと違った手の込んだ工法で造られている。
基礎である長石の上に台形に加工した石を等間隔に並べ、その上に四角形の長石の正面部分の隅を加工したものを乗せてその上に塀が築造されている。デザインと通風を兼ねた珍しい塀である。
津田地区にある教覚寺の鐘楼門は元禄元年(1688)に建てられたといわれ、いまどき珍しい草葺きの屋根の鐘楼門は近辺ではみたことがない。
かつて草葺屋根は普通であったが現在では草葺き職人の減少と防火上の問題があり、今ではほとんど草葺き屋根をみることはない。
宮内地区黒折の現況で一般県道廿日市環状線はここを起点に正面の山にトンネルを掘って、上平良地区の山陽自動車道高架下国道433号線の交差点に至るようである。
平成18年に事業説明があったようであるがこのところの予算不足で公共事業が抑制されているためか、住宅の立ち退きのみで事業は遅々として進んでいない。
宮内地区下明石にある宮川甲斐守切腹址碑で、昭和14年(1939)紀元2600年記念として地元の人達によって建立された。
昨日ふれた明石口合戦(折敷畑山合戦)で陶方の武将宮川甲斐守が討死し、この付近に後世里人によって甲斐社が祀られていたが明治期に八坂神社へ合祀されたようである。
宮内地区下明石の畑の片隅に「明石口古戦場跡」の標木が建立されていた。弘治元年(1555)の厳島合戦の前哨戦として明石口合戦(折敷畑山合戦)が行なわれており、ここ明石口から折敷畑山と折敷畑山に連なる上平良地区の山などで合戦が行なわれたようである。
上平良地区の山にはかつて戦いが行われたと思われる城趾ケ谷や死人ケ原などの地名が残されている。
宮内地区の大きな田んぼの稲の色が緑の濃い部分や薄い部分、良く伸びた部分や短い部分があって田んぼが波打っているように見える。
肥料の撒きむらがあったのだろうか、代掻きでかき混ぜが足らなかったのだろうか田んぼアートをみるようである。
中山地区に祀られている大歳神社の境内に小さな祠があり、亥の子石が数個安置され祀られている。
かつてこの地区で亥の子祭りが行なわれていたようである。農村の収穫を祝うという意味も込めて行なわれていたのであろうか。