大正期、水質の悪かった須賀町の有志が発起人となり、簡易上水道敷設の計画を立て工事が行われて大正12年1923)に通水式を行ったようである。(ふるさとの写真集)砂走り山中の水源地にはレンガ積みの湧水トンネルや配水池がみられた。
大正期、水質の悪かった須賀町の有志が発起人となり、簡易上水道敷設の計画を立て工事が行われて大正12年1923)に通水式を行ったようである。(ふるさとの写真集)砂走り山中の水源地にはレンガ積みの湧水トンネルや配水池がみられた。
原地区の川末集会所がある地はもと川末大歳神社があった所で、明治32年(1899)旧3月15日と刻されている石鳥居が残されている。明治期の地誌によると明治42年(1909)12月に川末大歳神社は村社の伊勢神社に合祀している。
ウォーキングの途中にある伊勢神社境内から瀬戸内方面を遠望すると手前中央の山が以前に紹介したゴゴロ山で、ゴゴロ山を貫いたように見えるのが山陽自動車道である。瀬戸内にみえる右側が宮島で左側は能美島でさらに左は江田島である。厳島海峡右向うに大黒神島が見え左側向うには倉橋島が遠望できる。
物入れの片隅にあったスクラップ帳にラジオ少年であった頃のQSLカードがあった。下画像のような5球3バンドのラジオを制作して各地の放送を受信して受信状態や内容などを報告したら送ってもらえたものである。「RADIO AUSTRALIA」「VOICE OF FREE KOREA」「VOICE OF AMERICA」「北京放送」など短波で海外の日本語放送を聞いていたこともあった。
物入れの片隅にあったスクラップ帳に昭和後半期頃に訪れた懐かしい各地の有料道路や橋・トンネルなどの通行券があった。現在はETC化されておりこのような通行券を知っている者は高齢者のみであろう。上画像の領収書は鳥取砂丘から姫路城に向かう中国山地を超える途中で、主要道が通行止めでガタガタの林道が迂回路となっていた時のものである。
生口島瀬戸田町の鹿田原(江戸期鹿田原村)の俵崎城跡の麓にある厳島神社で、(絵図赤丸ケ所)江戸期の地誌には「建暦二年壬申、勧請すといふ」とある。中世、俵崎城を所守していた生口平左衛門と何らかの関りがあったのかも知れない。
山口市宮島町にある嚴島神社で、応永13年(1406)に大内盛見が安芸国嚴島神社を勧請して県庁がある地に祀った。(絵図赤丸ケ所)幕末期に社地が藩主の居館となったので現在地に移転したようである。社殿内の多宝塔上層部は室町時代中頃の建築手法のようであり山口市の有形文化財に指定されているようである。
ウォーキング途中の新興団地の庭で、見たことが無いような小さな黄色い花がびっしりと咲いている木があった。Googleレンズで検索してみるとミモザのようでオーストラリア南東部を原産とするマメ科アカシア属の植物のようである。
昨年3月5日に植菌した椎茸のホダ木から椎茸が生えてきた。9本のホダ木に植菌したが太いホダ木からはまだ生えそうにない、細い1本のホダ木のみから生えてきた。
以前のホダ木からは沢山の椎茸が生えていた。補充用のホダ木にぼちぼち植菌しなければ・・・
宮内地区でみかけた民家の棟が見たことが無いような納め方がしてあった。通常の棟は熨斗瓦を何段も積み重ねて雁振瓦を被せたものである。この民家では熨斗瓦の部分には荒波紋と武田菱の家紋がある特注の瓦が嵌め込まれているものである。
ウォーキング途中でみかけた民家の棟が見たことが無いような納め方がしてあった。通常棟は熨斗瓦を何段も積み重ねて雁振瓦を被せたものである。この民家では丸瓦を並べずらした二段重ねとして小口は漆喰仕上げとし、上部に二段の熨斗瓦で雁振瓦が被せてある。
ウォーキング途中の原地区鎮神原にある鎮神堂で、この地には江戸期浄楽寺があった所のようである。(絵図赤丸ケ所)江戸期の地誌によると「往古者浄楽寺与申真言宗ニ而堂塔御座候由之処、其後退転仕、当寺ノ小堂一宇本尊而巳相残、鎮守さま与唱へ申候」とある。N家の先祖が浄楽寺の住職であったが福島正則の寺領没収により以降小堂をN家の鎮守尊として代々祀っているようである。
昨日は現在行われている開発地の進捗状況を下流方向からみた遠望画像であったが、今画像は宮島サービスエリアの展望所からの遠望で、上から3・4画像のクレーンがある所で擁壁工事が行われているようである。
五庵山の東麓からみた平良丘陵開発の工事現場の現在であり、用地の最下流地域で広池川沿いに大きな調整池の工事が行われていた。遠くの斜面では擁壁の工事も行われているようである。
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事で久しぶりに訪れたら東側のコンクリート躯体の最後の立ち上がりが残っているようであった。堂垣内広池山線の予定地内で市道中央線(元小学校道)沿いの2棟と山添にある住宅が無くなっていた。