昨日紹介した二風谷ダム湖の脇にはかつてのアイヌ集落(コタン)を復元したチセ(家屋)群がみられる。茅葺屋根の伝統的な建築技法や儀礼を継承するためにチセ群整備など行われているようである。下画像は昭和15年(1940)頃の沙流川沿いの集落の様子(沙流川歴史館)
昨日紹介した二風谷ダム湖の脇にはかつてのアイヌ集落(コタン)を復元したチセ(家屋)群がみられる。茅葺屋根の伝統的な建築技法や儀礼を継承するためにチセ群整備など行われているようである。下画像は昭和15年(1940)頃の沙流川沿いの集落の様子(沙流川歴史館)
先日旅先から紹介した北海道沙流郡平取町にある二風谷ダム(二風谷湖)で沙流川に設けられた重力式コンクリートダムであるが、このような形式のダムを見るのは初めてである。ダム湖の脇には沙流川歴史館がありダム工事に伴う遺跡調査の考古資料などが展示されている。当館で二風谷ダムのダムカードと上流部で建設中の平取ダムのダムカードを頂戴した。
昨日は北海道を訪れ、千歳空港からレンタカーでツアーでは行くことのない二風谷ダム周辺を散策。 ホテルから慣れないタブレットで・・・
今日はどこを放浪しようか。
当地域では見られない田の神像があることを何度か紹介したが、佐伯区の観音神社境内に田の神像があるとのことで当神社を参詣した。手水舎の脇に小さな石鳥居が建てられておりその先に田の神像が安置されていた。看板表示によると鹿児島県の崇敬者によりこの田の神像は奉納されたもののようである。
田植えを済ませた田んぼでは沢山のオタマジャクシが泳いでおり、その中に少し変わったものが泳いでいた。よく見るとカブトエビのようであるが泳ぎが早く画像が撮りづらかった。カブトエビは外来のようであり、水田に水が入ると孵化し早い場合は2週間程度で成熟するようで,田土に卵を生み卵は乾燥に耐えるようである。
一昨日紹介した梅雨太郎さんに向かう山道の脇に何の木であろうか枝分かれした幹の1本が折れ曲がっていた。折れ曲がった幹を見ると真っ直ぐに伸びた幹に交差した部分が接合して一体化 していた。
昨日紹介した梅雨太郎さんの近くに湧出している梅雨太郎水が上画像のようになっていた。蛇の頭を模した口から下画像のように湧き水が流出していたが流出穴が砂で詰まったようで応急処置でビニールホースが設けられていた。当ブログ主が小学生の頃この付近は田んぼが植えられており、田畔を通って清水(後に梅雨太郎水と称するようになった)を飲みに行ったことを思い出した。
梅雨空の中、上平良二重原地区にある梅雨太郎さんに会いに行ったが見かけることは出来なかった。江戸期の地誌には「上平良村石か小屋にあり、石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見えず、此の石犯すものは祟ありといふ」とある。岩国市大藤地区には梅雨左衛門があり、以前に紹介した『2019年7月探訪』『2020年6月探訪』が現在は訪れることが出来ないであろう。
佐伯歴史民俗資料館蔵
ひと時代前に使用していた田植え民具をストック画像から紹介しよう。吉和地区の2ケ所と佐伯歴史民俗資料館でみられた民具で六角枠を引いて筋と交点の跡を付けていくようなもので作業は効率的なものである。
ひと時代前に使用していた田植え民具をストック画像から紹介しよう。六角枠は田植えをする跡を付ける民具である。六角枠を前に転がして方形の跡を付けていくもので縦横が揃った田植えが出来るのである。
ひと時代前に使用していた田植え民具をストック画像から紹介しよう。上画像は引いて筋を付けるもので中画像は押して筋を付けるものである。引かれた筋の上に前向きに苗を植えて行くので効率的であるが早乙女により間隔はまちまちとなる。隠岐郷土館に展示されていたスジツケに「ばば」と表示してあり筋を引くことをババヒキというようである。
今年は水不足気味で田植え準備が遅れた所もあったようであるが、遅ればせながら当ブログ主も田植えを済ませることが出来た。親の時代に使用していた田植え民具をストック画像から紹介しよう。三角枠は植え付け定規であり、早乙女数人が並んで枠の印がある位置に植え付けて手前に回転させていくものである。早乙女の植え付け差と後下がりのために効率的ではない。
昨年秋に採っていた陸稲の種籾から育てていた育苗を田植えならぬ畑植した。下画像は田植えした黒米の苗が余っていたので畑植してみたがうまく育っていくのであろうか。
上画像の左側に見える三角屋根が現在の宮島口駅舎で右側が新駅舎となる。新駅舎は改札口もなく開放されており、小銭を握ってたまに乗る昔人間は戸惑いそうである。現在架線工事が行われていたが新駅舎内の信号機には試点灯していた。