午後6時現在、少し風はあるけれど西の空は夕焼けに染まっていた。
宿泊ホテルから現代の城である長浜城ライトアップがみられた。歴史ある地の歴史博物館であるが早朝外から見ただけである。長浜は琵琶湖水運の要衝の地であったようで多くの木造舟が出入りしていたものとみられ、廃舟の舟板を町屋や土蔵とみられる外壁の下見板として利用されていた。
JR長浜駅の近くにある長浜旧駅舎は現存最古の鉄道駅舎のようで、明治15年(1882)3月に敦賀線(北陸線)、琵琶湖経由の鉄道連絡船の起点駅として開設されたようである。
北陸街道沿いの街並みの中にある旧国立第百三十銀行長浜支店の建物で、軒蛇腹や上下窓など洋風の意匠を取り入れ、黒漆喰塗りの外観から黒壁の愛称で親しまれたようで現在は黒壁ガラス館として使用されているようである。(上画像)中画像は街道沿いにあるビルかと思わせるような木造3階建ての旧開知学校で、明治7年(1874)に建築されたようである。開設地から昭和初期に現在地に移設され、平成12年(2000)に原型に近い形に復元されたようである。
当ブログ主が以前訪れた松本市の旧開智学校は明治9年(1876)に、佐久市の旧中込学校は明治8年(1875)に建築されており、旧開知学校と建築年代がほぼ同じで擬洋風建築の作風が少し似ているようだ。(下画像)
長浜市の滞在はホテル宿泊のみの旅程であったので、徘徊癖のある当ブログ主は早起きをして朝食前に北国街道沿いの長浜の街並みを探訪した。趣きのある町屋の中で本うだつのある町屋が2棟みられ、昨日紹介した近江八幡のうだつとほぼ同じような屋根上への突出が少ないのと平瓦を葺いているものであった。街並みには寺があり通常は山門がみられるのであるが、ここの寺の正面は町屋風の建物で屋根上には鼓楼が設けてある珍しい寺院建築である。
近江八幡の街並みでうだつを設けた町屋が数軒みられた。ここの街並みのうだつは屋根上に突出している本うだつであるが、屋根上への突出が少ないのと平瓦を葺いているのが特徴的である。新しい町屋に本うだつが設けられているものもあり、消滅しそうなものもみられた。
八幡堀沿いでは数多く瓦製造していたようであり、平瓦は本ウダツを始め庇や塀の屋根にも使用されているようである。
琵琶湖北辺にあるマキノ高原の県道沿い約2.4kmにわたり約500本が植えられいるというメタセコイヤの並木を訪れた。当ブログ主が中学生のころメタセコイヤは生きた化石と言われて中学校に植えられており、枝を持ち帰って挿し木をして育てていたら成長が早く小さな庭では大きくなりすぎて伐採してしまった思い出がある。
本日は早朝から近畿方面への観光旅行で18年ぶりに宇治の平等院を拝観した。前回訪れた時には博物館の鳳翔館の工事中で池の発掘調査中であった。連休中でどこも混雑気味であった。長浜市のホテルから慣れないタブレットで送信。明日はどんなところに行くのだろう。
昨日掲載した架線用の鉄骨電柱には段付きレール(ステップレール)が使用されていることを紹介したが、広電市内線で開業当初は往来の激しい箇所に段付きレール(ステップレール)を使用し、カーブ区間はグルーブド型レールを使用したようである。大正15年(1926)頃にはこれらのレールを37kgレールに順次交換しており、木柱の架線用電柱であったものを古レール加工した架線用電柱としたようである。(上画像-がんもさん・下画像-広島電鉄開業100・創立70年史より)
雨の予報であったので昨日墓所の掃除をすませた。今日は彼岸の入りであり田畑の畔端や井出端、里道などに彼岸花が季節を違えずに咲いている。ここの場所はかつて田んぼか畑であったのであろうか彼岸花が群生している。
当ブログ主は後期高齢者に仲間入り、敬老会の案内があり昨日平良地区の敬老会に初参加した。当方は新入りであり実行委員会の人達や中学生以外はすべて先輩たちである。来賓の祝辞の後、アトラクションで七尾中学校吹奏楽部の演奏、平良保育園年長組の合唱・ダンス、平良小学校6年生のリコーダー合奏、バトン同好会のバトントワリング、実行委員会の合奏、抽選会等々が行われて楽しい一時を過ごし、平良小1年生の少女からフルーツ沢山のしおりを頂戴し元気をもらった。
老化防止のために元気で徘徊を続け何時までも更新を続けていきたい。
当ブログ主は探訪地で見かけたマンホール蓋を撮影するようにしており、今回訪れた柳井市では古い街並みをデザインしたものと金魚提灯をデザインした止水栓の蓋と消火栓の蓋がみられた。宇部市では緑と花と彫刻のまちと表示され市の木クスノキと市の花サルビア、常盤公園しょうぶ苑の花菖蒲がデザインされているマンホール蓋がみられた。