ゴーヤの巻きひげは他の物につかまって状態の良い生育姿勢を保つための機能のようであり、巻きひげをよくみると遺伝子が作り出した不思議な機能がみられるのである。
巻きひげは細長く二本に枝分かれして先端で他物を捉まえるとそれに巻き付いて固定し、ゴーヤの蔓との間の巻きひげは中間部分の両側に右巻きバネと左巻きバネを形成して風などに揺すられても安定した生育姿勢を保つようになっているのである。
ゴーヤの巻きひげは他の物につかまって状態の良い生育姿勢を保つための機能のようであり、巻きひげをよくみると遺伝子が作り出した不思議な機能がみられるのである。
巻きひげは細長く二本に枝分かれして先端で他物を捉まえるとそれに巻き付いて固定し、ゴーヤの蔓との間の巻きひげは中間部分の両側に右巻きバネと左巻きバネを形成して風などに揺すられても安定した生育姿勢を保つようになっているのである。
昨日紹介したかつての福原遊郭があった花街跡にレトロな当市中国醸造の「はこさけ一代・蔵酒」の自販機が残されていた。「はこさけ一代」の定価が160円となっているが当ブログ主はアルコールには縁遠いので何時頃のものかは定かでない。
昨日紹介した市寸島神社境内のずらりと並んだバラック店舗建築が繁栄していた頃この界隈は福島遊郭があった花街だったようで、丸亀港や丸亀駅は金毘羅参りの玄関口でかつてその周辺の福島遊郭や新堀遊郭の遊里が賑わっていたようである。
全国遊郭案内(昭和5年刊)によると福島遊郭には妓楼が16軒、新堀遊郭には妓楼が18軒あったようである。栄枯盛衰を辿った花町跡を散策すると当時の賑わいを彷彿とさせる建物があちらこちらに残されている。
当ブログ主は訪れた旅先に祀られている厳島神社を可能な限り参詣することにしており、JR丸亀駅近くにある市寸島神社を参詣した。何と一の鳥居から参道脇両側境内地にバラック建築がずらりと並んでおり、かつて店舗は繁栄していたものであろうが今は空き家となっている。若い頃広島市的場町の猿猴川岸に不法占拠で強制執行のバラック店舗があったことを思い出した。
ネットの地図などには一寸島神社、香川県神社誌(昭和13年刊)には市寸島神社、鳥居の神額・拝殿の神額には厳島神社・天満宮とあり、神社誌によると祭神は市寸島媛命・菅原道真公とある。
丸亀城には高い石垣が多く隅角部の算木積みとされた扇の勾配と呼ばれる美しい曲線美が各所でみられ、場所によっては3重の扇の勾配がみられるところもある。
高い石垣が多いので石垣が毀損しかかっているところもあり上部に防水シートを張る工事がされていた。丸亀市のHPによると石垣の発掘調査・修復工事が長期間にわたり行われるようで美しい曲線美が見えないところもありそうだ。
昨日、紹介した国重文の大手一の門でなぜか外側の門が二の門とされている。一の門の櫓内に太鼓を置いて城下に刻を知らせていたようで太鼓門ともいわれていたようである。
櫓内で桁行中央に設けられた鳥居型の柱とつなぎ梁、横貫の中央に竹で×型に編んであるもの?と思った。竹の×型は殺風景な櫓内の飾りと土壁の下地材固定を兼ねているのであろうか。
一昨日、香川県丸亀市にある現存天守閣12城の一つである丸亀城(国重文)を久しぶりに探訪した。この天守閣は小さなもので天守閣2階は画像のように大きな柱が沢山あり室内空間は狭苦しく感じるものである。
天守閣のほかに国重文の大手一の門、二の門と県重文の玄関先御門、番所、長屋などの遺構が残されている。
猪の被害を受けたことを何度か紹介し被害対策として侵入防止用のネットを張り巡らせてみたが、どこから侵入するのか被害が続いているので畑の下の田んぼ周囲に万里の長城のようにワイヤーメッシュ柵を張り巡らせた。
隣接地の石垣上から飛び降りるのを防ぐにはネットを張り巡らしており効果があればよいのであるが・・・ 親が鳥獣被害防止のために使用していたカーバイト爆音機が倉庫の片隅にあった大きな音がするので今どき使用しているのを見たことがない。
上平良地区、山陽自動車道の側道脇法面のあちらこちらに赤紫のハギの花が咲いている。ネットによるとハギには色んな種類があるようであるが何ハギかは明らかでない。
ハギの花は秋の七草のひとつとされているようで、中秋の名月にススキとハギの花を飾っているので秋に咲くものと思っていたのであるが・・・
須賀地区にある広電バスの廿日市車庫跡であるがいつ頃に設置されたのかは定かでない。楽々園営業所が昭和59年(1984)6月25日に設置されているので同時期に廿日市車庫は廃止されたのではなかろうか。
車庫跡には当時の看板が残されているが劣化して字が読めないようになっている。現在は聖母マリア幼稚園専用駐車場として使用されている。
昨日紹介した江戸期の絵図にみられるように外宮社地御前社の釈迦堂は現在の地御前小学校の地にあったようである。明治期の神仏分離により釈迦堂の本尊である釈迦如来像も流転を経て現在ある堂宇に安置されたようである。
この釈迦如来像は丈六座像の大きな仏像であり、江戸期以前は相当大きな仏堂に祀られていたものとみられるのである。
厳島図会
地御前地区の市道と地御前小学校の敷地境に積まれている大きな石をよく見ると円形の凹部分がみられるものがある。
地御前小学校の地は江戸期絵図にみられるように外宮社地御前社の御旅所、釈迦堂、鐘楼などがあったようであり、絵図からみると御旅所の礎石のようにみられるのであるが・・・
先日津和野城跡を探訪しているとアジサイに似たような花が咲いた見たことがない樹木(?)があり取りあえず写真を撮っておいた。
インターネットで調べてみると蔓性のイワガラミの花のようで、画像上部をみると枯れた樹木に蔓が絡みついて周囲に花を咲かせているものであった。
直地大元神社
上横道大元神社
津和野町直地地区に祀られている大元神社と上横道地区に祀られている大元神社を参詣した。上横道大元神社には下横道にあった厳島神社が合祀されているようである。
石見地方では明治初年頃564社位の大元神社が祀られていたようであるが、どのような信仰が行われ祀られていたのかは定かでない。大元神社は厳島より勧請と記されているものが複数みられるので、厳島神社摂社の大元神社が土地の開闢の元祖神として勧請され祀られていたものではなかろうか。
津和野町池村字石楠山にある大元神社跡の樟で目通り幹囲が12.5m、樹齢450年といわれ県の天然記念物に指定されており、島根で一番大きな木と看板表示があったが・・・
石見地方で多く祀られている大元神社の神木として古くから守られてきたものとみられるが、明治期の神社合併により大元神社は三渡八幡宮に合祀されたようである。