後畑地区でみられた灰小屋でかつては石積みの上に土天井を設け藁葺き屋根であったものと思われる。灰小屋は「ハンヤ、クグシ小屋」とも言われており、現在ではあまり見ることがない。
冬になると灰小屋の中で山の柴(山野の小さな雑木)を燃やして焼き灰を作ったり、土をかぶせて焼き土を作って自給肥料としていた。
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後畑地区のアルカディア・ビレッジのグランドゴルフ場脇にある「あんやしき積石塚」で、丘陵の先端部に位置しかつては田んぼの中にあった。
中世ころの土地の有力者が葬られた積石塚とみられ古くから葬地とされて開墾されずに田んぼの中にぽつんと残されていたもので現在は墓地とされている。
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中伏地区にある河内神社であるが由緒などは不明である。当地区には現在1世帯のみの居住であるが、昭和32年(1957)頃は5世帯の氏神であったようである。
玉垣は大正15年(1926)8月に東宮殿下行啓記念として建立されており、現在の社殿は昭和32年に建築されているが当地区の氏子達のほかに後畑地区の人達の寄進もあったようである。
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佐伯区大杉地区にあり通称大杉神社といわれているようである。江戸期の地誌には森ケ平神社とあるが由緒などは不明である。
大杉地区には1世帯のみの居住であるが、11月には地元出身者などによって祭事が行なわれているようである。
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佐伯区大杉地区にある杉の根神社で大杉の根を御神体として祀っている。極楽寺の本尊である千手観音に関する伝説はいくつか知られており、その昔極楽寺山に登った僧行基は光を放つ大杉を伐って千手観音の像を刻み極楽寺に安置すると共に余木で幾多の像を刻んだ。
杉の根神社はこの大杉の根を御神体として祀ったといわれている。下画像は40~50年前頃の草葺き屋根であった杉の根神社である。
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極楽寺山頂から廿日市市と広島市の市境尾根道を大杉地区に向っていくと2ケ所で陸軍省とある陸軍輸送港域標石がみられる。
尾根筋の663m峰では第47号標石、617m峰では第46号標石があり、陸軍輸送港域内ではかつて色々な禁止事項や制限などが行なわれていた。詳細については陸軍輸送港域軍事取締法、同法施行規則や軍機保護法施行規則などを参照されたい。
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昨日、2ヶ月ぶりに廿日市参道から極楽寺に参詣した。平日であるが中高年の登山者が多く30数人と出会った。
極楽寺に参詣して標高693mの極楽寺山頂から廿日市市・広島市境の尾根道を663m峰~617m峰~大杉集落~中伏集落~アルカディア・ビレッジと巡った。
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浅原市野地区にある旧家の2階建て離れの一部1階部分が石積みで、その上に透彫り換気孔が設けられている。通常座敷など室内にみられるような透彫り欄間様のものがこのように外部に設けられているのは珍しいのでは・・・
当家の家紋は蔵飾りから三階松とみられ、それにちなんで老松と四君子の竹、梅、蘭、菊が彫刻されているものとみられる。
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昨日紹介した市野河内神社の境内林の中にかつて山鎮神事が行われていたと思われる古い痕跡が残されていた。
神木は枯れ朽ちており相当年数が経っているようであり、周辺には藁蛇の名残りや御幣を付けた幣棹など朽ちたものがみられる。これらをみると相当以前に山鎮神事は途絶えてしまったものと思われる。
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浅原市野地区にある河内神社で江戸期の地誌に市野組氏神とある以外由緒は不明である。
道路上に見える石造の鳥居とかつては木造の両部鳥居(四脚鳥居)があったが現在倒壊して残骸が残されている。
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串戸地区にあるギザギザの民家で敷地の形状からこのような平面となったものとみられる。
手前の奥行きが1間で間口方向1間ごとに奥行きが0.5間広がっていく平面で間取りはどのようになっているものであろうか。
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可愛川に架かるJR山陽本線の鉄橋(上画像)と広電宮島線の鉄橋(下画像)の枕木をみると鋼製のリングが打ち込まれている。
枕木の材種は不明であるが枕木の縦割れを防止するために鋼製リングが打ち込まれているようである。
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畑の片隅に植えているグイメの花が満開でどこから来たのであろうか蜜を求めて飛び交うミツバチの羽音が騒々しい。
田植え頃には大グイメが鈴なりとなり農作業の合間に数粒食すが、ほとんどカラスやヒヨの餌となっている。
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平良地区と原地区の境付近の籔の中に旧川末川の川跡が残されており、長野川との旧合流部分には小さな川口がみられる。
昭和26年(1951)のルース台風で原地区・平良地区を流れる河川はことごとく氾濫し、復旧の際に川末川と長野川の合流部が約150m上流に築造されて、旧川末川の川跡はそのまま残されたようである。
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