野貝山の最高所(標高733m)で元三角点があったが、現在は少し西側の719.5m峰に野貝原山三角点が設置されている。
最高所には朽ちかけた元三角点の標木が残されておりすぐ脇に折れた2つの陸軍輸送港域第二区標石が建っている。国土地理院の地図から最高所の三角点・標高表示が消えてからここを訪れる登山者はほとんどいないようで藪と化している。
一昨日、川末地区の大迫川沿いからの登山道を登って久しぶりに野貝原山頂に立った。この登山道沿いの山は手入れがされており障害物はないが急坂である。
山頂にはのうが高原時代の展望台が残されており、展望台上からのうが高原施設の廃墟を遠望、遠くの瀬戸内はかすんでよく見えなかった。施設跡のゲートは開いておりトラックが入って行ったが、遠くの方で何かの作業(木材搬出か?)が行なわれているようである。
上平良地区にある河野原溜め池で現在土手下にて補修工事が行なわれているために水位をさげており、上流の堆積土砂が流れてにごり水となっている。
この溜め池は受水する田んぼの面積に応じて負担金を出して(下画像)昭和15年(1940)に築造されたものである。当ブログ主が子供の頃、上流からの堆積土砂を取り除くために地域の人達が総出でトロッコによる排出作業をしていたことが思い出される。
原地区にある一景苑団地の奥地脇にある溜め池の跡で相当以前から廃止になったようで、池の中にはかつて一景苑の用水を確保するための井戸が4ケ所も掘られている。
溜め池の名前が不明で、原地区の江戸期地誌には堀田ケ谷、堤ケ谷と明治期の地誌には堀田ケ谷、池ケ原、しゐながさこ溜め池がみられるがどれに相当するのであろうか。地元の人が子供のころ一景苑が出来る前で尾根を越えて泳ぎに行っていたと懐かしそうに話しておられた。
原地区を散策していると国鉄時代のC20形有蓋コンテナを利用した倉庫がみられた。
コンテナにC20-3389と記されているので昭和46年(1971)から昭和48年(1973)の間に製造された鉄道輸送用の有蓋コンテナのようで、老朽化のために払い下げられて倉庫などに転用されたもののようである。
上平良地区を散策していると田んぼのゲシに生えているイヌビワの果実が鈴なりであった。
イチジク状の果実を割ると小さな種子がみられ傷をつけるとイチジクのように白い液が出てくるので、野生イチジクと思っていたがイヌビワのようである。
昨日紹介した新幹線五日市トンネルの点検孔口がある広池地区にはトンネル掘削時の土石で、かつて田んぼであったところが埋め立てられて畑や資材置場などになっている。
五日市トンネルは6.585㎞もある長いトンネルであり、現在点検孔となっている途中からも掘削した土石を搬出してこれらで埋め立て造成されたものである。
上平良広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、トンネル内を新幹線が通過している時には大きな音が孔口から聞こえる。
地図をみると新幹線のトンネルルートは離れた位置にあるが孔口からトンネルまでスロープで接続されているものと思われる。
平良体育館の遠望で平成14年(2002)までは平良小学校の屋内運動場(体育館)として使用されていたものである。平良小移転後跡地は住宅地となり屋内運動場は残され体育館として使用されているが画像のように屋根の老朽化が進んでいるようである。
この地に昭和26年(1951)平良小学校の木造講堂が建てられ、昭和55年(1980)にこの屋内運動場が建築されたようである。
原地区を流れる川末川に架かる下ケ原橋の下に電話線ケーブルを支えるH鋼梁が架けられており、このH鋼梁の銘板に下ケ原橋専用橋と記されていた。
昭和54年(1979)に当時の日本電電公社が設置したようで、県道の橋名である下ケ原橋下にある公社専用のH鋼梁であるので下ケ原橋専用橋とされたのであろう。
原地区を散策していたらかつて馬や牛に引かせて田畑を耕していた古い時代のスキが侵入止めの柵として使用されていた。
柄の部分とトコ部分及び引き棒部分は木の曲りをうまく利用したもので、トコ部分の先に金属製の鋤先を付けていたのかは不明である。当ブログ主の親が使用していたスキよりも古い時代のものであり保存しておきたいものであるが・・・
山陽自動車道近くの国道433号線予定地内で昨年まで田んぼに稲作されていたが、今年は田んぼの荒起こしが行なわれていないので新年度から工事が行なわれるのであろうか。二分された田んぼは大変だ!
山陽自動車道の側道から時折紹介している長野川の架橋工事をしている間が、改良工事の残されている区間である。
備前市の北部にある八塔寺の集落は茅葺き屋根の民家が点在し農村の原風景を残している集落である。
かつて八塔寺ふるさと村として茅葺き集落を生かして周辺整備されたようであるが閑散としており、現在十数棟の茅葺き家屋が残されているが過疎化の進行で無住の家もあり屋根が朽ちかけたものもみられ先行きが危惧されるのである。
佐伯地域の津田町並みではあちらこちらの店先に案山子が見られるが、先日来紹介している熊山遺跡に向う途中の道端でマネキン顔の案山子がみられた。
傘や衣装がすこし色あせていたので10月頃の案山子まつりに作られたものであろうか。向う側の道路法面の草を刈っている案山子は草の状態などから本物かと思われるようなものである。