『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

原線の広電バス運行時代-①

2020年03月31日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 



広電バスの原線運行は昭和18年(1943)に郊外バス事業者の統合でマキノバスの廿日市~原線の運行を引き継いでおり、マキノバス時代の原線運行開始については定かでない。また当時国立原病院も開設されていなかったのでどこまで運行されていたのかも不明である。
昭和22年(1947)に国立広島療養所分院として発足しているので、この頃に原(原療養所口)停留所が設けられたものであろう。
昭和37年(1962)5月頃、広島バスセンターから原(原療養所口)行きが11便あり、ここから折り返していたが、それ以前の昭和35年(1960)頃にはすでに川末まで行く便もあったようである。(このバス停は現在原小学校上となっている)下画像は昭和20年代後期頃、原地区の中心地である橋本を通る広電バス(元原公民館HP画像より)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広電バスの原線運行休止

2020年03月30日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 

原地区の川末まで運行していた広電バスは一昨日で運行休止となり、昨日から小型の廿日市さくらバス(市自主運行バス)が運行されだした。昨今の原線広電バスは大きな車両でほとんど空気を運搬していたような状態であった。当ブログ主が若い頃にはバスセンターまで通勤に利用していた。時には満員で積み残しが出て臨時バスが運行されていたようなこともありドル箱路線であったのであるが・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洞雲寺-藤原興藤墓碑

2020年03月29日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 


洞雲寺西墓地にある厳島神主家で桜尾城主であった藤原興藤の墓碑で、この宝篋印塔には「興藤 天文九年庚子夘月日」と刻されている。

長府功山寺蔵の洞雲寺誌によると「位牌面 東光寺殿玉叟長琳大居士 天文十年辛丑四月六日也」とあり、他文献でも没年は天文十年(1541)とあるので、この宝篋印塔は興藤が在世中に建立した逆修塔ではないかとみられている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

街路畑口寺田線工事の今

2020年03月28日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 



以前に旧佐方フラワー通り沿いで都市計画道路の畑口寺田線の高架橋脚ピアー工事が行われていることを紹介したが、高架橋脚の工事はほぼ終わっているようである。天井川である佐方川沿いの堤防道路などの残工事が行われていた。工事個所近くの佐方川堤防に植えられている桜並木にはぼんぼりが吊り下げられていたが・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洞雲寺-陶晴賢墓碑

2020年03月27日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

洞雲寺西墓地にある陶晴賢の墓碑で、弘治元年(1555)の厳島合戦で毛利元就に討たれた陶晴賢は桜尾城で首実検の後洞雲寺に葬られた。桜尾城主であった桂元澄の6男である元盛(入道岌圓)が元和8年(1622)に著した桂岌圓覚書に「廿日市洞雲寺にて葬礼仰せ付けられ、石塔御すへなされ御弔ひ候」とあり、勝者である毛利元就は敗者である陶晴賢を丁重に弔って石塔を建立していることがわかるのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洞雲寺-毛利元清夫妻墓碑

2020年03月26日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 

 

 

洞雲寺の東墓地にある桜尾城主であった毛利元清夫妻の墓碑で、左側の毛利元清墓碑には「慶長二〇〇〇 笑山 七月〇〇〇」と刻銘がみられる。桂元澄の後桜尾城を継いだ毛利元清は約28年在城し慶長2年(1597)に没して洞雲寺に葬られた。右側の毛利元清妻の墓碑には「天正十八年 松溪 妙寿 五月初七日〇〇」とあり、元清の妻来島通康の女で天正十八年(1590)桜尾城で没し洞雲寺に葬られた。
中央にある燈籠には「笑山公墓前 献燈 寛政丙辰秋七月六世孫讃岐守 従五位下大江朝臣匡訓」と刻されており、元清の六世の孫である長府藩の支藩清末藩主第4代藩主匡邦(匡訓)が建立したものである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

洞雲寺-桂元澄夫妻墓碑

2020年03月25日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 



洞雲寺の東墓地にある桜尾城主であった桂元澄夫妻の墓碑で、左側の桂元澄墓碑には「南無阿 大江元澄 弥陀仏」と刻銘がみられる。桂元澄は桜尾城に約15年在城し永禄12年(1569)に没して当寺に葬られた。
右側の桂元澄妻の墓碑には「慶長弐〇丁酉 一月正輪大姉 〇〇春廿七日」とあり、御妻志道上野介広良女の墓とみられるのである。この墓碑は大正期以前には西墓地にあったようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野貝原山登山-泉水峠林道

2020年03月24日 | 登山

 

 

 

 



元のうが高原の周遊路から泉水峠に向かう山道は掘削道となっており、その先は広い平地とされているので高圧線鉄塔の建て替えなのであろうか。泉水峠付近の林道工事は祭日で作業をされていないので通行止め区間を通らせてもらった。
虫道廿日市線の険道区間の各所で測量杭が打たれているので測量がされたものとみられ、県道294号虫道廿日市線として整備又は林道として整備されるのであろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野貝原山登山-太陽光発電所用地の現状

2020年03月23日 | 登山

 

 

 

 

 

かつての「のうが高原」用地が掘削されて太陽光発電所の用地として整備をされていることを以前紹介した。とにかく広大な用地であり見る限り各所で太陽光発電パネルの支柱や架台の工事が行われているようであり、西側698m峰側の斜面には太陽光発電パネルが一部設置されていた。泉水峠に向かう周遊道を通っていると通りがかりの現場監督風の人がどちら方向に行くのか尋ねられ気を付けて通行してくださいと声を掛けられ通行禁止とは言われなかった。道路には英語表示板もあったが?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野貝原山登山-のうが高原跡

2020年03月22日 | 登山

 

 

 

 

 



「ふれあいライフ原」(元国立病院機構原病院)脇から名号岩、604m峰を経て野貝原山に登る山道は登る人もなく荒れており、昔の山道の跡を辿りながら登っていく険しいルートである。山道を登りきるとかつてのうが高原の事業用用地とされていた場所には太陽光発電パネルが設置されていた。

道路を頂上方面に登っていく途中にはハイゼットバンの廃車がみられ、枝道を進んで行くとかつての夢の跡である別荘廃墟があちらこちらにみられた。夜の道路を照らしていた街灯は朽ちており、のうが高原ホテル跡の道路面部分まで取り壊されているが山斜面の下部分はまだ残されているようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野貝原山登山-名号岩

2020年03月21日 | 登山

 

 



昨日、野貝原山一帯がどのようになっているのかと原地区にある「ふれあいライフ原」(元国立病院機構原病院)脇から名号岩、604m峰を経て野貝原山に向かった。名号岩は1956年(昭和31年)に地元の玉川三一氏が立善寺鳥鼠義郷住職の書「南無阿弥陀仏」を巨岩に刻されたものである。岩上から原地区一帯と遠くには五日市の町並みなどが遠望でき、点灯していたのであろうか工事保安灯の束がありバッテリーが放置されていた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極楽寺山登山-⑦

2020年03月20日 | 登山

 

 



樹木の茂った参詣道を登山するとつれづれに変わった形の木などがみられる。以前フェンスを喰った木を紹介したが他の木の根を喰い込み中のものがみられ、年数が経つと完全に喰い込まれるものとみられる。
下画像の木は一見するとサルスベリのようであるがよく見ると木の肌がちがうようである。クネクネとした枝ぶりであるが何んという木であろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極楽寺山登山-⑥

2020年03月19日 | 登山

 

 

 


極楽寺本堂脇の覆屋内に古梵鐘が安置してあるが、この梵鐘は延宝6年(1678)に廿日市鋳物師の山田貞栄が鋳造したものである。現在銘文を見ることが難しくなっているが銘文によると最初の梵鐘が盗難に遭ったとあり、重い梵鐘を山上からよくも持ち逃げしたものだ。
梵鐘が無くなったので昨日少し触れた明応5年(1496)には厳島神主宗親が大旦那で廿日市鋳物師の久信が2代目の梵鐘を鋳造したが、年数を経て音の響きが悪くなったようで、廿日市町人の宮屋氏を施主として覆屋内のこの梵鐘が鋳造されたようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極楽寺山登山-⑤

2020年03月18日 | 鋳物師

 

 



極楽寺に参詣しても本堂屋根の頂部に注目する人は殆どいないであろうが、よく見ると屋根頂部の宝珠露盤に鋳造銘がみられるのである。銘文によると慶長4年(1599)11月に宍戸備前守元次を檀那として本堂が建立されたようである。露盤鋳造者の銘文はみられないが、極楽寺の鰐口を明応2年(1493)、梵鐘を明応5年(1496)に廿日市鋳物師の久信が鋳造しているので、露盤も廿日市鋳物師の鋳造作品とみても間違いないであろう。宝珠の銘文は見えないが宝永元年(1704)に廿日市鋳物師の山田貞能が鋳造しているのである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

極楽寺山登山-④

2020年03月17日 | 登山

 

 

(福山市鞆町並みの力石)

(淡路国一ノ宮伊弉諾神宮の力石)

(讃岐国一ノ宮田村神社の力石)


極楽寺の本堂前にある砲弾型の力石で「昭和十八年三月一日 広島蒟蒻分場 青果小売組合」と刻されており、かつて極楽寺の縁日(かんのんさんの日)は3月1日であり、縁日の日に寄進されたようである。それ以前は鉄製の打出の小槌型の力石(?)があったようであるが戦時供出されたようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする