山陽新幹線の高架橋で御手洗川に架かる御手洗川橋梁は岡山~博多間の開通が昭和50年(1975)3月10日なので前年位に架橋されたものとみられる。東側にある橋脚の銘板に839K900mとあるので東京駅からの距離であろうか。
山陽新幹線の高架橋で御手洗川に架かる御手洗川橋梁は岡山~博多間の開通が昭和50年(1975)3月10日なので前年位に架橋されたものとみられる。東側にある橋脚の銘板に839K900mとあるので東京駅からの距離であろうか。
手前から御手洗側道橋(下り線)、2号線から廿日市ICに向かうランプ、高架橋から廿日市ICに向かうランプ
橋脚向う側西広島バイパス
手前から廿日市ICから高架橋に向かうランプ、廿日市ICから2号線に向かうランプ
御手洗側道橋(上り線)
西広島バイパスで御手洗川に架かる橋は広島岩国道路の廿日市インターチェンジへの接続道路などの橋が連続して架けられており、御手洗側道橋(上り線、下り線)と廿日市高架橋(Iランブ)(Jランプ)の銘板が確認できたのみで橋名は不明である。上画像で下流側(右側)から御手洗側道橋、2号線から廿日市ICに向かうランプ、高架橋から廿日市ICに向かうランプ、西広島バイパス、廿日市ICから2号線に向かうランプ、廿日市ICから高架橋に向かうランプ、御手洗側道橋など複数の橋が架けられている。 (上画像-国土地理院空中写真より)
毎年この時期に紹介しているが今年も宮園小学校校庭の法面にチガヤの白い花穂がびっしりと咲いていた。チガヤは荒れ地になると繁茂して厄介な雑草である。チガヤの新芽で葉に包まれている頃の若花穂は少し甘味がある。子供の頃、田舎では菓子やガムなど無かったのでチガヤの新芽をズボーナといってチューインガムの代わりに噛んでいたものだ。
昨日は絶好の運動会日和で平良小学校の運動会が開催され将来を担う平良っ子達が元気良く競技をしていた。日影が少なく炎天下での応援はいささかくたびれたが、孫も来年卒業するので最後の運動会となった。1年ぶりに平良小学校校歌を歌った。 ♪ 平和を心のまもりとし たがいに仲良くむつまじく 学びの道にいそしみて 文化の華につちかわん ♪
平良小学校を卒業してから何年になるだろうか来月同期生が集う予定であるが・・・
飯美地区にある白鬚神社を参詣した。画像を見て気が付いたのであるが本殿屋根の鬼板には彩色された鬼面が取り付けられていた。境内の神木には龍を思わすような藁大蛇が巻き付けてあった。「隠岐の島町総合誌VOL、52」によると山や農業の神として崇敬されている荒神さんを祀る行事で、地域総出で40mある藁蛇を編んで白鬚神社境内にあるケヤキの木に奉納し、新しい年の五穀豊穣を祈ったようである。
当ブログ主は訪れた地に祀られている厳島神社を参詣することにしており、隠岐空港近くの小さな漁村岸浜地区に祀られている厳島神社を参詣した。どのような経緯で安芸国厳島神社が勧請され祀られているのかは定かでない。この神社の本殿も隠岐造りのようである。
隠岐では古くから闘牛が行われているようで、隠岐郷土館の近くに姿沢闘牛場と表示された闘牛場があり、島内を周回する途中にも闘牛場入口の表示があった。国分寺に隣接して隠岐モーモードームがあり観光牛突きが開催されているようである。壇鏡の滝に行く途中と西郷岬灯台近くで牛が放牧されていたが闘牛用の牛であるのかは定かでない。
巨樹のかぶら杉を見に行く途中に銚子ダムがありダムマニアではないがダムカードを貰い、見島ダムに続いての離島ダムカードとなった。
西郷小学校に隣接の墓地の一角に露国軍人戦没者墓地があった。碑文によると明治38年(1905)5月の日露戦争日本海海戦での戦死漂着者8遺体を埋葬供養したようである。以前紹介した見島の露兵漂着碑は露兵乗組員がボートで漂着し地元の人達は手厚い治療・救護の後に送還したようであるが、ここでは戦死漂着者を埋葬供養したようである。
日露戦争当時に先日紹介した西郷岬灯台の近くに西郷海軍望楼が設置されており、望楼跡は発掘調査が行われて説明碑が設置されているのみであった。ここの望楼では223度40分の範囲の望見をしていたようである。(潮岬海軍望楼跡)(絵図-アジア歴史資料センター)
看板表示によると明治18年(1885)に隠岐四郡(周吉・隠地・知夫・海土)連合会によって周吉外三郡役所庁舎として西郷町に建築され、その後島根県隠岐島庁・隠岐支庁庁舎として使用されていたが、昭和45年(1970)に郡の地に移築され隠岐郷土館として使用されているようである。
屋根は古来の入母屋造りであるが窓は上げ下げ窓やファンライト窓、ファンライト欄間、ケラバの円型換気孔、軒蛇腹、胴蛇腹などと明治期の洋風建築を模した擬洋風建築である。かつて当市にも擬洋風建築の佐伯郡役所があった。
億岐家住宅
都万目の民家
佐々木家住宅
玉若酢命神社に隣接の億岐家住宅(国重文)は神職家の住宅で、屋根は茅葺屋根であり建物正面に三か所の出入り口がある。郡地区の隠岐郷土館脇にある都万目の民家は都万目地区にあった豪農の民家を移築されたようで茅葺の屋根で建物正面に三か所の出入り口がある。億岐家住宅、都万目の民家の屋根棟に馬乗り型の千木のようなものがあり、隠岐ではバンジャと言われているようである。かつて中国地方ではカラスオドシ、ホテギ、ウマノリ、ウマキその他数多くの呼び方があったようである。釜カス谷地区にある佐々木家住宅(国重文)の屋根は杉皮葺きで石置きがしてあり、建物正面に三か所の出入り口がある。
これらは何れも旧家や豪農の建物でありこれらの民家形式は隠岐造り民家と言われているようである。茅葺屋根や杉皮葺き屋根の昔ながらの伝統的な民家が残されていないかと島内を周回したがもう残存していないようである。
郡地区
大城地区
卯敷地区
飯美地区
墓といえば墓石が積み上げられた石塔と思うが、隠岐の島を巡っていると所々にある墓地の中に見たことがない墓上施設のスヤといわれる小さな祠堂がみられた。スヤは土葬されていた頃に埋葬地の上に置かれていたようであるが、火葬される現在でも墓碑が建立されるまで仮の墓標や供物などを収める祭壇のような役割で昔ながらの墓制を踏襲しているようである。
香取神宮
鹿島神宮
氷川神社
大洗磯前神社
靖国神社
昨日と本日、千葉県香取市の下総一宮香取神宮、茨城県鹿島市の常陸一宮鹿島神宮、埼玉県さいたま市の武蔵一宮氷川神社と茨城県大洗町の大洗磯前神社、東京都千代田区の靖国神社を参詣した。宿泊先からタブレット送信がうまく出来なかった。画像紹介のみ。
玉若酢命神社
水若酢神社
伊勢命神社
賀茂那備神社
隠岐の島にある神社の本殿で隠岐造といわれる隠岐地方独特の様式を有する下西地区の玉若酢命神社(国重文)、郡地区の水若酢神社(国重文)、久見地区の伊勢命神社、加茂地区の賀茂那備神社を参詣した。隠岐造は切妻造妻入の身舎正面に片流れの向拝を設けたもので、向拝の屋根は身舎の屋根と連続していない構造の隠岐独特の様式のようである。伊勢命神社の境内に祀られている境内社の小祠も隠岐造であった。
大山神社
岩倉神社
御客神社
隠岐ユネスコ世界ジオパークHPの島後の神社マップには90社位表示されているが、これらのうち巨木信仰や巨磐信仰など自然信仰の形を伝え社殿のない珍しい神社を探訪した。布施地区にある大山神社は鳥居をくぐると御神体である杉の巨木があり、その御神体にカズラを巻き付けた神事の跡が残されていた。
大満寺山の中腹にある岩倉神社も鳥居をくぐると乳房杉といわれている御神体の杉の巨木があり、乳房状に根が垂れ下がっているのが特徴的である。銚子地区にある御客神社は鳥居をくぐり、巨樹切株の中に生えている二世の杉の木に注連縄を架け渡して結界とし、その先の御神体である巨磐に注連縄が張られている。訪れたこれらの神社は一般的な神社のイメージとは違ったものであり当ブログ主は初めてみるものである。
隠岐の島を一周したが各所で田んぼの代掻きが終わった所や田植えの終わっている所がみられた。隠岐郷土館の展示民具の中にある田植え民具で筋付けがババと呼称されているようであり、当地ではババ引きと云って碁盤の目のように筋を引くようである。(ババ引き画像-隠岐経済新聞記事より)
田んぼがある周辺には稲束を掛ける画像のようなハデが各所でみられ朽ちてやり替えまでそのまま立てられているようである。現地での呼称を聞き取りをすることが出来なかったので観光協会に問い合わせハデと呼ばれていることを教示して頂いた。