厳島は江戸期より桜や紅葉の名所として知られていたようで、地誌によると特に桜の名所として大元浦、紅葉の名所として紅葉谷が著名であったようである。
多々良潟に建立されている植栽記念碑によると明治42年(1909)に広島小林区署(現営林署)によって桜4万2千本、モミジ4千本が植えられているようであるが、どこに植えられたのかは定かでない。
冠高原の牧場跡に今では見られない鼻の突き出たボンネットタイプのレトロなダンプトラックがあった。
トラックのマークにはISUZUとありいすゞ自動車の4輪駆動トラックのようである。牧場の作業用や前部に除雪用のブレードを取り付けてスキー場駐車場、道路などの除雪用に使用されていたもののようである。
冠高原の中ほどに建立されている冠高原開拓先駆者の供養塔で、山県郡から入植して木鍬で開拓したそうである。この供養塔には法名など刻してあるが開拓先駆者は山県郡に葬られているようである。
この地は江戸期には萬象ケ原といわれる湿草原であったようで、戦後の昭和21年(1946)に広島県の開拓政策により西山開拓団が入植して昭和30年代にはスキー場が設けられ冠高原と称されるようになったようである。
洞雲寺の東側墓地にある桜尾城主であった桂元澄夫妻の墓碑で、元澄は桜尾城に15年間在城していた。
左側の墓碑が元澄の墓碑で「大江元澄」と刻されており、右側の墓碑は「慶長弐○丁酉○○春初廿七日」「一月正輪大姉」と刻されており没年から後室の志道広良女(娘)の墓碑とみられる。
津田八幡神社の境内山林内に神木の巨樹の切株が覆屋を設けられて残されている。
表示板によると桧の巨樹で平成21年2月に伐採されたようで、樹齢は約340年、樹高約32m、胸高幹周4.7m、直径1.6mであったようである。
入浜の長い砂浜の中に祀られている鷹之巣浦神社で、厳島の七浦にある厳島神社の末社である。この七浦神社を巡拝する御島巡式が行われている。
鷹之巣浦神社は元鷹之巣浦にあったが明治期に鷹之巣低砲台の築造に伴って入浜の地に移転遷宮した。平成3年(1991)の台風19号では倒壊流出し、平成7年(1995)に再建された。
上平良地区の国道433号線沿いから堂垣内、陽光台、宮園団地に至る約1.5Kmの間にコンビニが5店舗とスーパー1店舗の小売店の激戦地域であったところに、新しくスーパー1店舗が新築されてコンビニが1店舗廃業された。
先日また上平良交差点付近のコンビニ1店舗が廃業淘汰された。
可愛川の河口部分で広島南道路(湾岸道路)の北側にある県木材公社の貯木場跡は埋め立ての工事が行われている。
埋立て後は廿日市シビックコア地区整備で臨海ゾーンとされ水辺の魅力を活かした賑わいのある街なみを形成するゾーンのようである。かつて榎の浦沖のこの辺りは遠浅で海水浴や貝堀りをした親水海岸であった。
一昨日の夕方、速谷神社前付近を走っていたら瀬戸内を大きな船が通っており、どこに着くのかと思っていたら五日市港に着岸していた。
FUJITRANSの中四国・関東航路を航行する「きぬうら丸」で、総トン数は12,691t、乗用車1747台、トレーラー52台が積載できるようである。五日市港に広島出張所が置かれておりこの港に寄港するようであり昨日はもう出航していなかった。
弥山への登山道で紅葉谷から博打尾を経てロープウェー榧谷駅から獅子岩駅に向かう榧谷コースはきつい山道で一般向けではない。
登山道の途中で榧谷駅から獅子岩駅に向かう途中には巨岩が2か所あり、花崗岩が風化して鬼真砂の馬ノ背状になった尾根道を通る。ロープウェー用の電線であろうか垂れ下がって岩上を擦りそうである。
原・川末地区にある民家裏の田んぼの畦脇にある茂った木の枝には「モリアオガエル」の産卵の泡である卵塊が数ケ所みられた。
ここの田んぼ周辺では梅雨時期に近いこの頃になると毎年見ることができるようであるが、今年はまだ少なく梅雨が本格化すると数多くの卵塊がみられるものとみられる。
佐方小学校付近の高台から見た洞雲寺門前で行われている廿日市駅北土地区画整理事業の現在の進捗状況で、かつての山や田んぼは無くなって遠くまで見通すことができるようになっている。
駅裏に残っている一部の山や住宅はいづれ取り除かれて、新しい街づくりが着々と進んでいくものとみられる。
はやぶさが帰還したことは今朝の新聞、テレビで大きく報道されているが、はやぶさは2003年5月に打ち上げられ05年11月に地球と火星の間にあるイトカワに当ブログ主の家族5人を含めた88万人の名前を載せたターゲットマーカーが届けられた。
この間には孫が生まれて今や小学生となっており、「はやぶさ」は大きな夢を届けてくれてありがとう。
(イトカワ画像-JAXAサイトより)