深江地区沖に浮かび宮島を借景とする大野の景勝地である夫婦島で、海食門のある大きな島は男島で小さい島は女島である。
満潮時には見え隠れしそうな女島の脇にある小岩は子供島である。他に呼ばれ方があるのかも知れないが、これらは当ブログ主がふさわしいのではなかろうかと呼称したものである。
深江地区沖に浮かび宮島を借景とする大野の景勝地である夫婦島で、海食門のある大きな島は男島で小さい島は女島である。
満潮時には見え隠れしそうな女島の脇にある小岩は子供島である。他に呼ばれ方があるのかも知れないが、これらは当ブログ主がふさわしいのではなかろうかと呼称したものである。
宮島台団地南口付近にある入り江入口に架かる国道2号線の小さな橋名が尾田越とあり、海岸には似付かない橋名で地名から名付けられたようである。
かつて西国街道沿いの高畑方面から山越えして尾田越集落があり、その海岸沿いに尾田越新開が築造されたために尾田越地名が現在の海岸までとなったようである。
原後畑地区の河内神社本殿脇に祀られているコソ四郎社で、かつてコソ四郎屋敷跡に祀られていた。
昭和57年(1982)頃にはコソ四郎屋敷跡にあったコソ四郎社は倒壊寸前であり御神体は河内神社に合祀されていた。後の時代に河内神社境内にコソ四郎社が再興されたようである。民話に登場するコソ四郎を祀ったものといわれる。
原後畑地区の河内神社で74段の参道石段を登った境内に祀られている。当神社の御神体は木造の薬師如来像で両側に随身が祀られていた。(昭和57年(1982)に探訪調査)
神仏習合時代の農村民衆信仰の様子が窺われるのである。
原後畑地区のアルカディア・ビレッジ向かい側にある河内神社の参道石段で登り口に木造の両部鳥居が建てられている。
昭和57年(1982)に探訪したときには石段の中間部に木造の両部鳥居があったが現在は登り口に建て替えられている。
以前紹介した宮島SAスマートICアクセス道路の一部完了した上り線の西端から国道433号線方面への側道で普通車がやっと離合できるような幅員である。
市のデータによると11月中の通行数は85,350台ということである。現在県によって用地買収がされているようであるが拡幅工事はもう少し先になりそうである。
洞雲寺鐘楼門脇に「神通橋」と刻された石柱が置かれていた。かつて桜並木の参道から佐方小学校方面に向かう道と鐘楼門に向かう三叉路付近の参道に神通橋があったようである。
宮島SA上り線側を高台から俯瞰すると遠く瀬戸内には宮島から能美島、江田島、似ノ島(画像には無い)をみることができる。
厳島海峡沖には大黒神島がみられ、この位置から天候が良いときには雪を冠った四国の石鎚山が見えるかも知れない。
昨日画像の向う側の山上から見た画像で高架水槽脇のICゲートから撮影している場所付近でUターンして右側平地方面に伸びて舗装道路に接続する。 撮影ケ所はまだ高い位置なのでこれから掘削して右側の平地部分を埋めてS字スロープになるものとみられる。
時折宮島SAスマートICへのアクセス道路の拡幅について紹介しているが、上り線部分で画像手前の工区はほぼ完了しており続いての工区の工事が始まっている。 画像手前の舗装道路から大きくS字カーブを描いて高架水槽脇のICゲートまでに至る部分の工事が進められている。
廿日市の町並みで伝統的な町屋の面影を残したものは数えるほどしかみられなくなった。
幕末の長州戦争の際に多くが消失しておりそれ以降に建築されたものも多くが建て替えられている。
画像の町屋は長州戦争翌年に建築されたようで小屋組などの部材に古材が使用されておりあわただしく復旧されていることがわかるのである。
津和野藩御船屋敷跡に祀られている稲生神社で、津和野藩主の崇敬していた太鼓谷稲成神社を船屋敷鎮護のために分祀し祀られたものである。
太鼓谷稲成神社を勧請したものであるが鳥居の神額にはなぜか稲生の字とされている。大正期の地誌には稲荷とありどのような経緯でこのような字が用いられたものであろうか。