上画像は若い頃に技術計算に使用していたSEIKOパーソナル・コンピュータの本体・モニター・プリンターなどの各機器を接続していたUSBケーブルで、左側の細いものが現在のものである。四角の部品は切り替えスイッチである。中画像はコネクタ部分で下画像はコネクタ今昔でびっくりするような大きなものであった。
先日、殻付きの牡蠣を求めて焼牡蠣をして美味しく食した。そのうちの牡蠣殻に見たことがない初めて見る稚貝が付いていた。稚貝の殻はガラス質のように見え小さな身もついていた。このような稚貝から食するようになるまでの養殖期間はどれくらいになるのであろうか。
岩倉温泉橋近くの県道沿いにある倉庫の外壁面に数十年前から木製の歯車が架けられたままになっている。これが歯車であることを知る人はあまりいないのではなかろうか。電気モーターが普及する以前には水車の動力を木製歯車や縄ベルトで、精米や製粉、製材などの機器を動かせていたのを子供の頃伯父の家でみたことがある。
昨日紹介した岩倉温泉の源泉貯水槽跡の脇に見たことがないような変わった形のクソナバがあった。Googleレンズで検索してみると成熟したホコリタケのようで、頭部中央の穴からほこりのような胞子を飛散させるようである。
蛇腹式のミノルタセミPでミノルタカメラの前身である千代田光学精工で昭和26年(1951)から製造されたようである。ボタンを押すと蛇腹式の先端にあるレンズ部分が飛び出してくる。蛇腹式とはその装置が蛇の腹部に似ているから呼称されているようである。
令和6年もいよいよ今日かぎりとなりました。先日紹介していたしめ飾りを当ブログ主流と娘流で先日仕上げてそれぞれの玄関に飾った。
※当ブログは老化防止のために記しているぶらり見たままのブログですが、今年も多くの方々にご来訪閲覧して頂き大いに励みとなりました。来年も老体鞭打って更新を続けたいと思いますのでお暇な時にご来訪ください。
昨日紹介したしめ飾りは「はつかいち」ぶらり流の作り方で若い者には・・・ 娘から上画像のようなしめ縄の輪っかを作るよう頼まれた。下画像は今年正月に飾っていたしめ飾りで、若者好みのしめ飾りを作るようである。
我が家の玄関に架けるしめ飾りを作った。上画像のように3つのパーツを作り上側2つの藁束を2等分して捩じりながら綯っていく。下側のパーツは真ん中で折り曲げ適当な長さに切る。綯ったパーツの大きいものを輪がたにし小さなものは2重輪型にして画像のように先端部を切り取る。これら3つのパーツを組み合わせて縛り上げてウラジロ、ダイダイ、センリョウなどを取り付けて完成である。29日に仕上げる予定でほぼ下画像のようになる。
上画像・中画像は、かつて江波の二本松、瀬戸内の舟、安芸の小富士を描いた江波焼であるといわれていた皿で、一時江波焼に関心を寄せる人たちが多くコレクターも多くいた。
ところが、佐賀県嬉野市塩田町の窯跡から採集された焼物片の中に、以前に江波焼とされていたものが含まれていたのである。また志田焼展にも江波焼であるといわれていた絵柄の皿がみられたのである。
子供の頃に使用した上画像のような歯磨き粉(今は缶のみ)を知っている人は少ないであろう。現在は歯磨き粉と言えばチュウブ式のものが主流である。
歯磨き粉のおかげで現在20本以上の歯が健在であり歯科衛生連絡協議会から8020達成記念の記念品・表彰状を頂戴した。
宮島線線路わきに上画像のような見たことがないような花が咲いていた。Googleレンズで検索すると熱帯性花木のデュランタのようであり、観賞用に植えられたものであろうか。下画像の花はウォーキング途中でみかけた小さな花で、Googleレンズで検索するとアルバルコウのようである。
田んぼの脇でチョロチョロする小動物がおり、画像を撮ることが出来たのでGoogleレンズで検索してみるとシベリアイタチのようである。今年もスイカはことごとく食われてしまい一口も口にすることが出来なかった。アナグマやシベリアイタチにやられたようだ。
先日紹介した蓮台寺の境内にレトロな車が置かれて「アンバサダー 釈 CAR しゃ(インドの車)」と表示してあった。
Wikipediaによるとヒンドゥスタン・アンバサダーはインドのヒンドゥスタン・モーターズが1958年から2014年まで生産した自動車で、インドの国民車として生産されていたようである。
家の周りを見たことがないような小動物がうろついていた。孫が画像を撮って何かと検索してくれたがすぐには分からなかった。
夏休みで博多から来ている孫たちは携帯ばっかりいらっており何をしに来たのかと昭和初期人間は・・・ しかし、色々と調べてくれ疥癬病を発症しているキツネではなかろうかと教えてくれた。
昨日ラムネ瓶を紹介したが懐かしい飲み物で、画像のような肉桂水は今でもあるのだろうか。子供の頃トッピンと言っていたが催し物か町に出た時しか飲むことはなかった。当時瓶の蓋はコルク栓であったが後にアルミ蓋となったようである。
左側はハタ鉱泉㈱のニッキ水、中央はオーパイ㈱のニッケ水の空瓶、右側は四国明治飲料㈱のニッキ水である。