平成14年(2002)に新築移転された平良小学校は”木のまち廿日市”にふさわしい木造校舎のまなびやとなった。
正面玄関から運動場につながる空間、平良っ子通りは網入りガラスが葺かれた明るく高い空間で、この通りでは廿日市の将来を担う平良っ子のにぎやかな声が聞こえるのであろう。
平成14年(2002)に新築移転された平良小学校は”木のまち廿日市”にふさわしい木造校舎のまなびやとなった。
正面玄関から運動場につながる空間、平良っ子通りは網入りガラスが葺かれた明るく高い空間で、この通りでは廿日市の将来を担う平良っ子のにぎやかな声が聞こえるのであろう。
津田小学校横にある疫神社で医療技術の乏しかった時代に悪疫の流行を鎮めるために祀つられたもののようである。
江戸期延享2年(1745)の棟札が残されており、安永年間(1772~81)や天保年間(1830~44)の村内疫病の流行時には当社で祈願されたようである。
原地区で長野川に架かる橋で橋名は郷呂橋と表示されている。橋名の由来を尋ねてみたが昔の地名ではなかろうかと教えてもらった。
江戸期の地誌の村内小名、井手、溝にはごごろ山はみられるが郷呂はみられない。明治の初ごろまでは田んぼ毎に地名(ホノギ)が付いていたが、現在は全く忘れられておりその中に郷呂地名があったものとみられる。
極楽寺山を散策していてチョッと目に付いたもの・・・ 画像上は廿日市参道で宮島SAからの出合いすぐ上で金属製の柵を食っているハゼの木がみられる。
中は原参道の途中では木にマチと彫り込み落書きがされており何を表しているのだろうか。下はスマルの滝付近にみられる像の鼻のように曲がった奇木があった。
浅原保育所・本郷会館の脇にある須賀神社で亀山神社祭礼の際の御旅所である。
社殿脇にある松の木には昭和天皇御大典記念と表示してあり、昭和3年(1928)11月10日京都御所で行なわれた昭和天皇の即位式を記念して植樹されたようである。
浅原亀山神社に掲額されている絵馬で明治10年(1877)に氏子達によって奉納されたものである。
絵馬には敦盛、熊谷と記されているので、源平の一ノ谷の合戦で馬に乗って海上の船に逃げようとした平敦盛を熊谷直実が襲い掛かっている名場面を描いたもののようである。
浅原地区にある亀山神社で元浅原村の村社であったようで、旧称は八幡宮で河内大明神、鉾大明神の三社の祭神が祀られているようである。
鳥居横の巨樹はツガの樹で広島県の巨樹調査表(昭和57年)には棟高幹囲3.2m、樹高25mとある。表示板には棟高幹囲3.4m、樹高22mとある。
原地区の山道に熊野町の筆の里工房で催されたと思われる「筆の里と棟方志功」展のシートが敷かれていた。
筆の里工房のHPによると平成18年に「筆の里と棟方志功」展が開催されており、何に使用されていたのか不明であるが不要になったので雑草除けのために敷かれたもののようである。
昨日紹介した厳島聴測照射所の新しい落書きのほかに終戦後の正月に訪れて記しているものもみられるのである。
壁面の文字を見ていくと昭和二十三年一月元旦、謹賀新年、電信などと記されているので、ここの施設に関わった人達が訪れたものであろうか。
平成17年から18年に中国地方の山100選(私の踏み跡)AKIMASA.NETさん、広島大学大学院理学研究科附属宮島自然植物実験所さん及び当ブログ主のサイトにて御床山南西の厳島聴測照射所の遺構について紹介した。
当時は腰まである羊歯やイバラの藪こぎしないと到達できなかったが、上記紹介後にルートが整備されてからここを訪れる登山者が多いものとみられ、約4時間もかけて到達して落書きをするような心無い登山者もいるようだ。
昨日は極楽寺の縁日で孫達と汗を流して参詣した。かつて縁日は旧暦の2月1日でひてい正月といって多くの人達が参詣していたようである。
当ブログ主が子供の頃は3月1日が縁日で学校の授業が昼までで終わり、昼から極楽寺に登っていた。多くの露店と参詣者で賑わっていたことが思い出される。
玖島地区にある玖島小学校の門柱をみると、いつの時代か不明であるがこの地にはいろんな学校が併設されていたようである。
左側の門柱には玖島小学校・玖島中学校・津田高校玖島分校とあり、右側の門柱には玖島学園とある。玖島学園とはどのような学校であったのだろうか。
串戸陸橋上を通る県道247号廿日市港線の西側側道脇に藤掛尾城跡と表示された標木が建立されている。
写真の藤掛山上に藤掛尾城跡の遺構があったのであるが昭和50年代初め頃に県道などの工事で城跡は消滅してしまっており藤掛尾城跡とあるのは・・・当時は海に突出た岬のような地形で絶壁を持った要害の地であった。