旧玖島村役場跡で休園中の玖島保育所脇にある旧玖島村の戦没者慰霊碑で大正10年(1921)に建立されている。
旧玖島村の日露役、日清役、大正3年乃至9年役、北清事変、日支事変大東亜戦争等の戦死者や出征者等の名前が刻されている。
昨日紹介した佐伯歴史民俗資料館の地の隣接地には玖島保育所と玖島診療所の建物が残されているが子供がおらず保育所は休園中で診療所も長く使用されていないようである。
当ブログ主が行くまで歴史民俗資料館は約1ヶ月間来館者がいなかったようであり、かつての中心地も人気がなく閑散としている。
旧玖島村の中心地で右側手前の現佐伯歴史民俗資料館の地には法務局があり、向う側に農協、村役場があったということである。
昭和49年(1974)の個別地図をみると法務局があり、向う側に東公民館、玖島保育所、玖島派出所が並んでみえる。
2~3日前上平良地区にある高圧線鉄塔の下部周囲に防護ネットが巻かれていたが、何かの保守作業で飛散を防ぐために設置されたものと思われる。
2~3日で作業は終わったようなので塗装工事ではなかったようである。
兵庫県加古川市にある刀田山鶴林寺は聖徳太子ゆかりの寺院で国宝の本堂、太子堂、国重文の常行堂、鐘楼、行者堂、護摩堂や多くの仏像・仏画など蔵している。
太子堂は桧皮葺の優美な建築で、堂内の各所に仏画が描かれているようであるが煤けて肉眼では見えないが、赤外線写真による九品来迎図や涅槃図を拝見させて頂いた。
兵庫県小野市にある極楽山浄土寺は鎌倉時代に創建されたということで国宝の浄土堂(阿弥陀堂)内には国宝の仏像3体が安置祀られている。
このほか境内には国重文の本堂(薬師堂)、八幡神社本殿・拝殿などの建造物や国重文の仏像、絵画、工芸品など沢山の文化財を蔵している。
異国の寺院と間違いそうなモダンな建物であるがれっきとした真宗寺院で本願寺神戸別院の建物である。
港町神戸に昭和5年インド仏教様式のデザイン寺院が建築されたようであるが、老朽化のため新築途中で大震災に遭ったようで震災後に完成したようである。
東本願寺の飛地境内にある渉成園内の随所に茶室や書院などが建てられており、その中で傍らに桜の花のある傍花閣は珍しい建物である。
楼門造りで建物両側に階段入口と階段、屋根が設けられている特徴ある建物である。
当ブログ休止中に西本願寺へ参詣し併せて各寺院を拝観したので、ブログ種切れ補うために少し紹介します。
東本願寺は縁がないので参詣することがなかったがこのたび御影堂に参詣し宮御殿、白書院、桜下亭、黒書院、大寝殿、能舞台などの諸殿を拝観することができた。
極楽寺への廿日市参道と原参道が出合うケ所から大日如来石仏がある所までの参道上の尾根には中世の城であった星ケ城の跡が残されている。
尾根筋は堀切りで3つの郭群に分けており、先端郭群と中央郭群には数段の郭が設けられている。城跡からは樹木がなかったら広島湾域が俯瞰できる位置であり、見張り所的な城であったのであろうか。
極楽寺山にある蛇の池のほとりに崩れた祠の残骸が残されており、かつて祀られていた蛇の池弁財天祠と思われる。
当ブログ主が子供の頃、蛇の池土手の西端山斜面に祀られていたが、明治100年記念で一帯が整備され道路築造によって弁財天祠が移転されたものとみられる。
一昨日は極楽寺の縁日であったが当ブログ主が子供の頃「かんのんさん」と言えば縁日のことであり、授業が昼までで午後から登っていたものである。
昔は旧2月1日が縁日で「ひてい正月」といって仕事を休み早朝の暗いうちから参詣のために登っていたようである。
昨日は極楽寺の縁日と極楽寺山安全祈願祭など山開きの行事が行なわれて多くの参詣者や登山者で極楽寺山は賑わった。
かつての縁日では露店がずらりと並んで画像のような数の参詣者がみられたが・・・昨日はゼッケン番号を付けた子供と親のグループが何組もみられ、蛇の池方面でレクレーションなど楽しいひと時を過ごしていた。
原地区の伊勢神社境内の桜も満開で見ごろであった。桜の老樹が10本くらいあるだろうか色あせたボンボリが吊り下げられているので夜間明かりが灯るのであろうか。
今年始めの新聞報道によると当神社で秋祭りに奉納される神楽が県の無形文化財に指定されたようである。
原地区の立善寺境内のしだれ桜と向かい側の原市民センター前庭のしだれ桜で見頃である。
立善寺のしだれ桜はうす桜色であるが原市民センターのしだれ桜は濃い桜色であるが何んという品種であろうか。品種などはどうでもえぇ綺麗な花さえあれば・・・