時折り紹介している都市計画街路畑口寺田線整備工事の進捗状況で、以前に鴨原踏切北交差点付近の橋脚工事がほぼ終わった画像を紹介した。現在看板表示によると鴨原踏切北交差点上の4工区橋梁上部工事が行われており、工期は12月28日までのようである。
時折り紹介している都市計画街路畑口寺田線整備工事の進捗状況で、以前に鴨原踏切北交差点付近の橋脚工事がほぼ終わった画像を紹介した。現在看板表示によると鴨原踏切北交差点上の4工区橋梁上部工事が行われており、工期は12月28日までのようである。
新装なった宮島口旅客ターミナルと隣接の商業施設の「etto(エット)」周辺の現状で、前面の広大な更地はもみじ本陣(旧宮島ガーデン)の跡である。広電のHP電車サービス向上計画によるとこの更地部分に下画像のような広電宮島口駅が移設整備されるようで移設完了は2022年度のようである。(画像は同HPより)
地御前地区にある民家の腰壁に舟板を使用したものがみられた。長年海水に浸かっていた舟材とみられ腐朽しにくいのであろう。下画像は以前訪れた長浜市の町並みでみられた大きな土蔵の腰壁に大量の舟板が使用されていたものである。
吉和地区でみられる昔ながらの民家で母屋や納屋の外壁が羽目板壁のものがみられる。沿岸部の民家では赤土の外壁が普通であったが、積雪の多かった吉和地区では土壁では耐久性がないので豊富にあった木材を利用して羽目板壁としたものとみられる。
吉和地区では昔ながらの草葺き屋根の民家が2棟みられる。草ぶき屋根の材料は茅、稲藁、麦藁などが使用されていたが、この2棟は耐久性のある茅葺きのようである。上画像のように以前は草ぶき屋根が多くあったが薄鉄板覆いがされている民家が多くみられるのである。雨仕舞の難しい棟部分は一棟では瓦葺きの箱棟とされており、もう一棟の詳細は不明であるが枠材に薄鉄板を張ったようなものが馬乗りに載せてあるようである。
旧吉和村は平成15年(2003)に合併して廿日市市となった。旧吉和村役場庁舎と棟続きの公民館は現在廿日市市吉和支所と市民センターとして使用されており、駐車場脇には閉村記念のモニュメントが建立されている。背面にはTIME CAPSULE 2003-2023とあり、タイムカプセルが埋め込んであるようで、3年後の西暦2023年に開封されるのではなかろうか。
吉和地区の民家軒下に残されているレトロな自販機3台で10年位前にも紹介したことがあるが当時より少し色が褪せているようである。画像左側はブルボンのポテトチップの自販機で200円を入れてレバーを下げると商品が出てくるようである。中央はヴィレ&CoffeeZの自販機で何れの商品も100円だったようである。右側はSunkistの自販機であるが字が消えており詳細は不明である。自販機の右側にはコンクリート製のレトロなゴミ箱がみられる。
吉和川(太田川)の取水堰堤
県道吉和戸河内線沿いの導水路
立野野営場道からみた水圧管上部と下部の発電所
太田川から見た発電所
先日紹介した瀬戸滝・立岩ダムに向かう途中の立野キャンプ場入口に佐伯中央農業協同組合の小規模発電所がある。水利使用標識などによると大田川の水を毎秒1.33㎥取水して発電しているようで、最大出力は450kWのようである。
この発電所は昭和27年(1952)の「農山漁村電気導入促進法」にもとづいて設置されたもので、電気が十分に供給されていなかった農村部に大田川の水資源を活かして電気の供給を目的に設置されたものである。
丸亀市内を走っていると道路脇にうちわの骨を表した2棟のバス停留所かと思わすような建物があった。ネットで調べると四国88ケ所第77番札所道隆寺と78番札所郷照寺の中間点に歩きお遍路さんの休憩所としてこの小屋が設けられたようである。丸亀うちわは江戸期から金毘羅参りの土産物として制作されていたようであり、うちわの骨をデザインしてこの休憩小屋が設計されたようである。 (中・下画像-うちわの港ミュージアムなど過去探訪のうちわ関連画像)
JR丸亀駅近くでかつて福島遊郭があった花街界隈が繁栄していたころ、市寸島神社境内にずらりと狭小のバラック店舗が並んで当時の賑わいを彷彿とさせる建物の廃墟が以前訪れた時にあった。その後どのようになっているのかと市寸島神社を参詣してみると通りの片側の建物は撤去されて本来の神社境内となっていた。また門前にあった古い本瓦葺きの酒店跡なども無くなって繁栄していたころの面影が次々と消えていた。
現存天主のある丸亀城では平成30年(2018)10月に三の丸坤櫓と帯曲輪の石垣が崩壊して現在復旧工事が行われていた。崩壊した石垣下のグランドには石積みの位置を示す番号が付けられた石がずらりと並べられていた。
下画像は平成29年(2017)6月に訪れた時のもので崩れる前、三の丸坤櫓の石垣上では防水シートを張る作業をされていた。石垣には大きな亀裂が入っているのがみられ、刻々と崩壊へと進んでいたようである。
昨日紹介した高松市は東讃岐であり西讃岐の丸亀市での燈籠はどのようなものかと市営墓地と寺院墓地を訪れてみた。見た範囲では墓地にある墓碑の一割か二割位しか盆燈籠はみられず色付きの盆燈籠がほとんどで異なった盆燈籠は三カ所のみであった。色付きの盆燈籠は門型の支柱に吊り下げられているものもあったが、長い房飾りもなく座りが良いので多くが墓碑前に置かれていた。高松市と丸亀市のほんの一部しか見ることが出来なかったが讃岐の東部と西部での盆燈籠習俗の一部を知ることが出来たのである。
先日紹介した盆燈籠を作っているとき、約50年位前の盆休みに高松市を訪れた際どこかの墓地で白い燈籠が吊り下げられていたのを思い出した。ネットで調べると安芸門徒の盆燈籠と同じようなさぬき盆燈籠の習俗があるとのことで、是非見てみたいと思い盆が明けてから炎天下高松市の2ケ所の墓地を訪れてみた。
墓碑前に門型の支柱が設けられて盆燈籠が吊り下げられており、全体的に白っぽい燈籠が多く色々なデザインのものがあって画像のような豪華なものもみられた。
昨日紹介した立岩ダムの堰堤が見える場所から安芸太田町の押ケ垰集落が遠望できるが今は無住のようである。ここ押ケ垰集落跡の最奥部に広電バスの押ケ垰車庫跡が残されている。広電社史の営業路線図などをみると押ケ垰線は昭和23年度末現在の運行路線でみられるが昭和24年10月、昭和30年のものではみられず、昭和50年の路線図にはみられるなどと押ケ垰線の運行状況の詳細は明らかでない。
立岩ダムの堰堤は安芸太田町押ケ峠地区にあるが貯水池の大部分は吉和地区であり、かつて吉和川(太田川)流域の急傾斜地に広瀬、一ノ原、二ノ原、三ノ原、立岩、大畠の6集落があったようであるが定かなことは不明である。このダムは昭和14年(1939)に完成しているようで、当初は下山貯水池と呼称して計画されていたようである。
地元古老話によると建設作業は過酷であったようで逃げ出す作業員がおり各所に見張りがいたような話など伝わっている。水利使用標識によると貯留量15,100,000㎥、取水量24.00㎥/sとあり、下流の打梨発電所に送水して発電している。