原小学校に隣接している民俗芸能伝承館で昨日眺楽座により説教源氏節人形芝居が公演された。伝承館前のイチョウの木の紅葉はもう少し先になりそうだが今年は剪定されており下画像のような紅葉は見られない。
安芸高田市吉田町の街並みにある高林防の本堂に吊り下げられている喚鐘で、刻銘によると天保15年(1844)5月に廿日市の山田氏が鋳造したことがわかる。しかし山田氏の誰が鋳造したのかは定かでない。現在判明している限り廿日市鋳物師山田氏最後の鋳造作品である。
厳島神社西廻廊の曲がり角から陸地側に架かる反り橋には10ケ所の擬宝珠がありこの内1ケ所に廿日市鋳物師が鋳造したものがある。刻銘によると安永5年(1776)3月に廿日市鋳物師の山田氏藤原貞利が鋳造している。解体修理前は廻廊側に取り付けられていたが、解体修理後はなぜか陸地側に取り付けられているのである。
ウォーキング途中の道路脇の畑にパパイヤ2本が植えられており今年も大きな青い実がふさふさと生っていた。数年前最初に見た時は何の実だろうかと思っていたが熱帯性植物でも育つものだ。
昔ながらの稲ハデ架けをしており、先人から「ハデ廿日」と言われていたので、一昨日助っ人を得て稲こぎを行った。昔ながらの稲ハデ架けといってもハデ杭はアルミ三脚でナルは鋼管を使用しているのである。
強制的に乾燥させたものでなく自然乾燥のおいしい米を今年もたっぷりと食べれそうだ。
当プログ主は旅行で訪れた地のローカル新聞を求めるようにしているが、ただ集めるのみ・・・ 河口湖畔のホテルで山梨日日新聞を貰った。伊豆白浜のホテルではネット時代を反映してか経済紙・全国紙の一部のみでローカル新聞は置かれてないようであった。
鶴岡八幡宮境内にある祖霊社の鳥居で柱と笠木が円形で貫が長方形の靖国鳥居という鳥居の形式のようであるが柱に傾斜がある。
靖国鳥居は別名が招魂鳥居、二柱鳥居とも呼ばれているようである。下画像は靖国神社の靖国鳥居である。
復元された箱根関所手前の道路に設けられた側溝であろうか、彩色された見たことがないような側溝蓋?がみられた。駅鈴、合鑑、御用提灯・十手、駕籠など旅に関する絵柄が表されていた。
喜生園跡の源範頼の墓
福蔵寺の源範頼の墓
昨日、修善寺温泉街はずれにある、源頼朝の異母弟で源義経の異母兄である源範頼の墓を訪れたことを紹介したが、源範頼は当地と何らかの関りがあったものとみられるのである。かつての桜尾城は源範頼の後裔である吉見氏が築城したと伝えられている。また佐伯区三宅の喜生園跡に源範頼の墓といわれる五輪塔があり、西区古江上の福蔵寺にも源範頼の墓といわれる五輪塔がある。
伊豆半島に位置する修善寺温泉街を散策した。一行は竹林の小径から修禅寺を参詣して河原にある独鈷の湯などを見物した。当ブログ主は放浪癖が疼きだし源範頼墓、指月殿、源頼家墓、登録有形文化財の新井旅館・甘泉楼外観などを見物した。
富士山5合目に祀られている小御嶽神社社殿前の鳥居で、通常みられる明神鳥居の両側に脇鳥居を取り付けたものである。三輪鳥居によく似た形状であるので三輪形鳥居と称した。
富士山5合目を訪れたが雨と濃霧で散策することも出来ず小御嶽神社を参詣して裏手の樹木を見るとみたことがないような不思議なものがみられた。寄生植物?コケの一種なのだろうか?
Googleレンズで検索してみると落葉広葉樹林や針葉樹林など、霧のかかるような森林の樹上に着生する サルオガセのようである。
昨日は河口湖畔のホテルに宿泊した。晴れていれば富士山が見えたのであるが曇天で・・・
富士山五合目も雨天であり何も見えなかった。外人ばかりで、外国に居るのかと・・・
慣れないタブレットより更新。
昨日は岩国空港から羽田空港を経て鎌倉見物した。東京に居る孫が来てくれ久しぶりにあった。宿泊は河口湖畔。明日はどこに行くのだろうか。
慣れぬタブレットより更新。
陸稲
陸植え2代目黒米
田んぼに植えた稲は稲刈りが終わった頃であるが、当ブログ主菜園の陸稲と陸植え2代目黒米はもう少し先に稲刈りとなりそうである。陸稲は稲穂が実っているので来年用の種籾は採れそうであるが、陸植え2代目黒米の稲穂はまばらであり来年用の種籾は採れ無いかもしれない。黒米は水田に植えるものだ。