『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

来る年→丑年

2020年12月31日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 

 

今年も本日限りとなりました。本年も万人向きでない当ブログに多くの方々の御来訪閲覧して頂き有難うございました。老体鞭打っての更新に大いに励みとなりました。
来る年は丑年になりますので牛に因んだ蔵飾りを紹介致します。農家にとって大切な農耕牛がデザインされたもので、牛に人物と籠を乗せて籠を背負った従者の像、牛に籠を乗せて籠を背負った金太郎があぐらを組んでいる像、牛に籠を乗せ金太郎があぐらを組んでいる像などの蔵飾りがみられる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

轆轤木谷の手無し観音

2020年12月30日 | 登山

 

 

 

昨日、極楽寺への廿日市参道の26丁碑脇にある手無し観音まで登山をした。手無し観音のあるところは轆轤木谷の最奥部であり、旧平良村共有林の薪炭山で当ブログ主の親が分山使用していたところである。登山道途中にあるど根性松(画像の左側弓状の幹が折れ曲がって右側に伸び上がっている)の葉が少し枯れかかっているので松くい虫被害を受けているのかも知れない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高尾山遺跡探訪

2020年12月29日 | 登山

 

 

 

 

極楽寺山から南に延びる舌状尾根上(標高260~267m))にある高尾山遺跡を久しぶりに探訪した。遺跡といっても何もない通常の山の尾根を藪漕ぎしただけである。樹木が無かったら平良地区及び広島湾一帯が俯瞰できる高所に位置している。二度の山崩れで南北200mの範囲の斜面から大量の弥生土器が流出し採集した。その後に試掘調査が行なわれ、広島湾周辺の典型的な弥生時代後期の高地性集落遺跡であることが確認された。高尾山遺跡については「廿日市町史」通史編(上)に詳述されています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

札ノ辻-広島市信用組合

2020年12月28日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

昨日紹介した芸備銀行廿日市支店は昭和25年(1950)に広島銀行廿日市支店となり、昭和30~40年代に国道2号線沿いに移転した。跡地には広島市信用組合廿日市支店が新築された。上画像は平成24年(2012)に撮影、下画像は平成30年(2018)に撮影したものである。江戸期にはここの四辻に御制札が掲げられ廿日市の一等地であったところである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸備銀行廿日市支店

2020年12月27日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

昨日紹介した旧国道(旧西国街道)沿いの四辻で廿日市の一等地にあった香川呉服店の地に、昭和8年(1933)8月に画像のような芸備銀行廿日市支店が新築移転した。芸備銀行廿日市支店の前身は可愛にあった村上銀行を大正5年(1916)10月に旧広島銀行廿日市支店が継続し、大正9年(1920)10月に旧広島銀行廿日市支店を芸備銀行廿日市支店が継続したようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福屋創始者-香川源兵衛

2020年12月26日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

 

昨日紹介した河野原大歳神社の手水鉢を寄進した刻銘の中に香川源兵衛の名がみられ、この人は昭和4年(1929)福屋百貨店の創始者の一人とみられるのである。明治末期の廿日市絵図をみると旧国道(旧西国街道)沿いの四辻で廿日市の一等地に香川呉服店と香川洋品店(中画像)がみられ、大正3年(1914)の絵図には香川源兵衛の名(下画像)がみられる。香川源兵衛は大正元年(1912)頃廿日市町会議員をしており、桂公園の山林用地の一部を無償寄附している。香川呉服店の地は昭和8年(1933)に芸備銀行廿日市支店となっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河野原大歳神社しめ縄奉納

2020年12月25日 | 「廿日市地区」ぶらり

 

 

大歳神社のしめ縄づくりをしていることを以前に紹介したが年末が近づいてきたので昨日奉納した。通常とは異なった形状のしめ縄であるが少し長さが短かったようである。平成22年(2010)に作り始めて10年目となったが今年は本殿前のしめ縄を作ることが出来なかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漆器の里-那須

2020年12月24日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり

 

 

 

かつて那須集落は漆器の里と言われていたようであり、那須ギャラリーに当時の轆轤道具や漆器製品などの名残りがあるのだろうかと期待していたが漆器の里であったことを伺わせるものは見当たらなかった。ただ那須小学校碑の脇に那須の木地づくり及び漆塗りの先駆者の石田富次顕彰碑が移設建立されていた。「とごうち郷土誌考」に掲載の那須の木地師がネットで紹介されているので参照してください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

筵(ムシロ)打ち機

2020年12月23日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり

 

 

一昨日紹介した、那須ギャラリーの絵画が展示してある脇に子供の頃に見たことがある筵打ち機が置いてあり、絵よりこちらに目が向かった。丁度ムシロを打っている途中の状態であった。打ち締める筬(オサ)に開けられた縦縄を通す穴がミソで丸穴の反対側は扇型に刳り貫いてあり、丸穴、扇穴が表裏に交互に開けられている。
筬に取り付けられた把手を上、下にすると縦縄に隙間が出来て竹で作られた筬通しで藁を通して筬で打ち締めるのである。このような筵(ムシロ)打ち機は江戸期の貞享2年(1685)に描かれた「和国諸職絵尽」にみられるのである。(和国諸職絵尽絵図-国立国会図書館デジタルコレクションより)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

柚子湯

2020年12月22日 | その他

 

昨日は冬至、畑の片隅に植えてある柚子の木には今年も鈴なりになっており、例年の如く浴槽にたっぷりと柚子を入れて柚子湯とした。柚子湯の効能は風邪予防、血行促進、美肌効果等々あるとされるがカラスの行水では効果のほどは・・・       ゆず湯モデルを依頼したが即却下今年はゆず湯モデルなし。

.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

那須ギャラリー

2020年12月21日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり

 

 

 

 

昨日紹介した打梨小学校那須分校跡は地域の集会所として使用されているようであり、また那須ギャラリーとして日本画や洋画が展示され無料開放されている。壁面には所狭しとばかりに数多くの絵画が架けられていたが絵心のない当ブログ主は・・・        冬時期は積雪が多い所であり春が過ぎてから絵に関心のある方は訪れてみてください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

打梨小学校那須分校跡

2020年12月20日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり

 

 

 

太田川沿いの打梨集落から少し下ると那須集落に向かう分岐があり、山道をしばらく進んで行くと那須の集落に入りすぐに打梨小学校那須分校跡がある。上手には那須小学校跡と刻された石碑がみられるが小学校が設置されて分校になった沿革は不明であるが、昭和46年(1971)に打梨小学校那須分校は統合廃校となっているようである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

折敷ニ三文字の蔵飾り

2020年12月19日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり

 

 

 

 

昨日紹介した打梨小学校・中学校跡近くの民家土蔵1棟と少し下流域にある打梨集落の民家土蔵3棟の蔵飾りに折敷ニ三文字が表示されていた。これらは家紋とみられ一族なのであろうか。川沿いの集落で田畑も多くないようであるが多くの民家に土蔵が設けられているのが特徴的である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

打梨小学校・中学校跡

2020年12月18日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり

 

 

 

 

 

太田川沿いの県道296号吉和・戸河内線を下っていると道路脇に打梨小学校舎跡と中学校舎跡及び付属建物が残されている。両校が設置されてからの沿革などは不明であるが、昭和40年(1965)に中学校が、昭和46年(1971)に小学校が統合廃校となっているようである。小学校舎は改装されて集会所として使用されていたようであり、中学校舎のポーチ屋根部分や軒裏、床下換気口など設置された当時の洒落たデザインなどをみることができる。周辺の谷沿いには集落跡はあまり見られずどこから小中学生は通っていたのであろうか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

押ケ垰の河内神社

2020年12月17日 | 「廿日市市周辺部」ぶらり

 

 

 

吉和地区から太田川沿いに下っていくと先日紹介した立岩ダムがあり、堰堤部分は安芸太田町域となってここから押ケ垰の集落跡が遠望できる。押ケ垰集落の最奥部に以前紹介した広電の押ケ垰車庫跡が残されている。何度か車庫跡を訪れたが今まで傾斜地の下方に民家跡があるとは気が付かなかった。下ってみるとその脇に地域の氏神であった河内神社があった。江戸期の地誌によると祭神は土祖神、祭日九月廿六日とあったがその他については不明である。拝殿内に由緒が表示されていたがガラス越しでは読むことが出来なかった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする