先日、速谷神社に奉納する注連縄用のもち米タンチョウモチの苗3箱が届いたことを紹介したが、苗を植える田んぼの代掻きを昨日行なった。田植えは2日にする予定である。
遠くにある田んぼで水廻りをしなければならず、今朝から散歩がてら速谷神社に参詣して田んぼの水廻りをした。
飯山地区にある大鹿破神社で江戸期の地誌には見られない神社である。昭和初期の郷土誌によると明治42年(1909)に大鹿破神社を廃し河内神社に合祀して境内の御神木を伐採して河内神社の維持費に当てたという。
明治42年~43年に当地区で赤痢が流行して患者が多く死亡者もあり、御神木伐採による神罰ではと・・・廃祀された大鹿破神社を再建立し神官による祈祷や祈願をしたようである。
吉和地区を走っているとツリー状に山藤の花が咲いているのがみられた。杉の木に山藤の蔓が巻きついてまんべんなく枝を伸ばして画像のように綺麗に咲いている。
杉の木に巻き付いた蔓は木の生長を阻害する厄介な樹木であるが、傍からみると目の保養になるのでこのままにしておいてほしいものである。
廿日市市役所前駅から吉和車庫まで広電バスが1日3往復運行されているようで、朝の便の吉和車庫に向っているバスをみると運転手のみで乗客は見られなかった。
赤字路線でもマイカーに乗れない人達がおられるので公共交通が守られて廃止することが出来ないのであろう。
昨日は絶好の運動会日和で平良小学校の運動会が開催され将来を担う平良っ子たちが元気良く競技をしていた。日陰が少なく砂ぼこりの舞う炎天下では応援するだけでもいささかくたびれた。
仮設テントの応援スタンド外にはキャンプ場ではないかと思わすようなテントやパラソルが林立していた。
昨日、広島県天然記念物に指定されている冠高原のレンゲツツジを見に行ったら満開であった。
冠高原の牧場からしばらく林道を進んでいくと見られるレンゲツツジの大群落で、旧吉和村の村の花で現地には広島県天然記念物表示の大きな石碑が建立されている。レンゲツツジは吉和地域に入ってすぐのゴルフ場付近から街路樹にも植栽されている。
広電廿日市駅の上下線ホームのみは新装なって使用されており、上り線側は上屋も完成しているようである。
現在は廿日市駅舎跡や踏切り脇にあった小店舗部分が下り線上屋前のロータリー広場に向けての歩道工事や下り線上屋の工事行なわれているようである。
上平良地区にある大歳神社の現状で、春の桜やずらりと並んだ石燈籠などを何度か紹介したことがある。
当神社は老朽化が進んで本殿屋根の痛みや拝殿の屋根瓦がずり落ちたりしてきているので応急的にシート覆いがしてあるが、氏子数が少なく先行きが危惧されるのである。
新聞紙上などに毎日のように報道されている橋梁のコンクリート剥離による落下事故後、各地での緊急点検が行なわれているようである。
橋梁だけでなく建築物も年数が経つと劣化が進んでいくので点検がされているようである。某小学校校舎の壁面タイルが所々剥がれたところがみられるが、点検で下地モルタルの剥がれがある部分が取り除かれたものであろう。
新春の速谷神社に奉納する注連縄にはモチ米の稲藁が必要であり、天日乾燥をしている当ブログ主に依頼があり今年で3年目の栽培となる。
昨日、うるち米ヒノヒカリと一緒にもち米タンチョウモチの苗3箱が届いたので約10日位毎朝水遣りをしてから田植えとなる予定である。
古代山城の鬼ノ城は鬼城山(標高397m)の8~9合目付近を鉢巻き状に石塁や版築土塁の城壁で取り囲み4ヶ所の城門、6ケ所の水門、角楼、礎石建物等の施設が設けられていたようである。
鬼ノ城からは吉備路が俯瞰できる城であるが記録にみられない謎につつまれた古代山城である。画像は復原された角楼(左側)と西門(右側)及び城壁を遠望する。
先日吉備路を探訪した時に造山古墳前方部頂上に荒神社が祀られており、その脇に見たことがない瓦質焼成の祠が5ケ所みられた。
廿日市市域では荒神信仰は盛んではなかったようであり荒神社を見たことがないが、吉備地方ではかつて荒神信仰が盛んだったようである。時代とともに荒神信仰が廃れ各所で祀られていた荒神祠がここに集められたようである。
原地区や上平良地区ではぼちぼちと田植えの準備が行なわれており、田んぼ水の吐口で昔ながらの麦藁や稲藁を使ったものがみられた。
吐口は「ムナクト」「ミナクト」などと言われており、田んぼの水位の調節や吐口から田土が流れ出ないよう麦藁束を編んだものや捻り折曲げたものを田土に埋め込んでいた。
毎年この時期に紹介している上平良地区の里山でササユリが咲き始めており周辺に甘い香りを漂わせている。
山斜面に光が当る状態にするために毎年雑木の刈り込みが行われてササユリが繁殖して群生地となっており、最近は訪れる人が多くみられる。
宮内市民センター前庭に建立されている川北翁頌徳碑で昭和25年(1950)に建立されているものであるが樹木に隠れて分かりにくい。
碑文によると川北翁は宮内村長在職中に野貝原山林の造成に努力され、これが結実して村唯一の財源となって村民はその恩恵に浴したと碑を建て翁の徳を頌したものである。