『はつかいち』 ぶらり

安芸の宮島の地・・・廿日市を見たまま紹介―独自の好奇心アンテナを張り巡らせて、ビビッと反応したものを紹介します。

佐伯郡解剖遺志碑

2010年03月31日 | 「廿日市地区」ぶらり


明治期に入って佐伯郡の医会では医療技術の向上を図るために死体解剖をしており、明治22年(1889)に建立された被解剖者の遺志碑が光明寺墓地に残されている。
碑文によると執刀者斉藤春香、主任医広藤国人、参加医員佐伯郡医会医員とあり、佐伯郡内で開業していた医師の解剖によって医療技術の向上を図っていたようである。

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廿日市駅裏開発の今

2010年03月30日 | 「廿日市地区」ぶらり


廿日市駅北土地区画整理事業に伴って現在駅裏の住宅が取り壊されており、もう少し残っている山ももうすぐ取り除かれるものとみられる。
この山が取り除かれたら駅と洞雲寺との間の山の樹木がほとんど取り除かれ、土砂が搬出されたら洞雲寺の見通しがきくようになるだろう。

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洞雲寺の清門柱がぽつんと

2010年03月29日 | 「廿日市地区」ぶらり


廿日市駅北土地区画整理事業に伴う洞雲寺周辺の移り変わりについて何度か紹介しており、かつての境内地入り口に清門柱がぽつんと残されている。門柱前のJR山陽線にはかつて踏切りがあってこちらから参詣していたものである。
この門柱は大正2年(1913)に建立されたものであり、当時佐方地区から海外に移民した人達68名の名前が刻されている。

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地御前神社境内社-住吉社

2010年03月28日 | 「廿日市地区」ぶらり


一昨日紹介した地御前神社境内社の金毘羅社に隣接して祀られている住吉社で、文政2年(1819)の地誌には恵美須社と住吉社がみられ天保8年(1837)の絵図には金毘羅社と住吉社が海岸沿いに描かれている。
現在はJR山陽本線沿いの屋敷内にあり容易に参詣することはできない。絵図に描かれた位置と現在の位置とについて同一かは定かでない。

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住吉土手の桜は

2010年03月27日 | 「廿日市地区」ぶらり


住吉土手に植えられている約600mの桜並木では昨日ボンボリの取り付け作業をされていた。時折みぞれが降る寒い日で並木の桜もちらほら開花していたが、寒さに縮こまっているようで満開までにはもう少しかかりそうだ。
来月4日には隣接する昭北グランドで桜まつりが開催されるようでありこの頃には満開となるだろう。

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地御前神社境内社-金毘羅社

2010年03月26日 | 「廿日市地区」ぶらり


地御前神社境内社の金毘羅社で文政2年(1819)の地誌には見られないが、天保8年(1837)の絵図には海岸沿いに描かれている。
現在はJR山陽本線沿いの屋敷内にあり容易に参詣することはできない。絵図に描かれた位置と現在の位置とについて同一かは定かでない。

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講中共有山

2010年03月25日 | 「廿日市地区」ぶらり


折敷畑山や横道山の山中には的場講・串戸講などと講中名を表示した看板が各所でみられる。
これらは各講中に割り当てられた共有山で講中の人達の焚き木や肥料にする芝木などが採取できる地上権があったが、今は山に入る人はなく荒れ放題である。平良地区では共有山は分け山制度があり個人に割り当てられている。

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折敷畑山古戦場跡

2010年03月24日 | 「廿日市地区」ぶらり


厳島合戦の前哨戦として天文23年(1554)陶・毛利両軍は明石口や折敷畑山一帯において合戦を行っている。折敷畑山は俯瞰の出来る位置にあり陶勢は各方面から攻め上がってくる毛利勢に抗したものと思われる。
NHK大河ドラマ「毛利元就」が放映された時には歴史ファンでこの山上は賑わったようであるが今は訪れる人もいない。ここにも以前紹介した陸軍輸送港域第二区標石が建立されている。

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折敷畑山南麓の横道

2010年03月23日 | 「廿日市地区」ぶらり


宮内地区を通る中世の石州道は上平良地区から折敷畑山の南麓横道山を横切って黒折地区に至る横道といわれる道であった。
現在も中電の管理道として使用されているために通行は可能であるが、黒折地区に近い部分は山林化して通行は出来ないようである。自動車が無いころに明石地区からこの道を通って上平良地区に来ていたと親戚の人から聞いたことがあり、このころまで通行されていたようである。

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小林千古生誕之地碑

2010年03月22日 | 「廿日市地区」ぶらり


地御前小学校校庭の片隅で旧国道沿いに昭和48年(1973)廿日市町によって小林千古生誕之地碑が建立されている。
この地で生まれた小林千古はアメリカやヨーロッパに渡って絵画を学び日本画壇に新風を吹き込んだ数少ない洋画家の一人であったようである。

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麦の耕作が

2010年03月21日 | 「廿日市地区」ぶらり


昔の農家では米と麦の二毛作であったが今は麦を作る農家はほとんど見られない。原地区では珍しく麦が耕作されているが小麦か大麦かは定かではない。
子供のころ麦踏みを手伝わされていたことを思い出し、農家で米を作っているのに小中学生のころ麦飯の弁当で隠しながら食べていたことが思い出される。
この麦畑の周辺に山猿が15・6匹うろついていたが慌てて山の方に逃げて行った。

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地御前町屋跡の発掘調査

2010年03月20日 | 「廿日市地区」ぶらり


現在地御前小学校の体育館に隣接した空き地で発掘調査が行われている。
近代の国道に面した町屋跡や江戸期の地御前神社に関連する遺構や遺物などや、縄文時代の遺物などが出土するのであろうか発掘調査の成果が期待される。

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万葉集歌碑

2010年03月19日 | 「大野地区」ぶらり


昨日紹介した中央の歌碑には天平3年(731)に肥後国益城郡の大伴熊凝が京都に向かう途中安芸国佐伯郡高庭駅家で亡くなり、不幸にも道中で亡くなった熊凝の心になり変わって筑前国主の山上憶良は六首の和歌を詠んでおりその一首が刻されている。
万葉集の原文には「出弖由伎斯 日乎可俗閉都々 家布々々等 阿袁麻多周良武 知々波々良波母」とあり、碑文には訓読みの「出でてゆきし 日を数へつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母らはも」と刻されている。

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高庭駅家跡・濃唹駅跡標石

2010年03月18日 | 「大野地区」ぶらり


高畑地区の旧西国街道沿いに万葉集に掲載されている筑前国主山上憶良の一首が刻された石碑、高庭駅家跡標石、濃唹駅跡標石があり、これらは大野町施行20周年記念で大野町・同教育委員会によって建立されている。
奈良時代の万葉集に安芸国佐伯郡高庭駅家とあり、平安時代中期の延喜式に安芸国駅家濃唹とある。高庭は高畑と良く似た地名であり、濃唹の記載順序などからこの地とされたもののようである。
しかし文献資料もなく考古資料もないので定かな位置については不明であり、これらは当時の郷土史研究歩みの記念碑である。

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国道433号線改良工事の今

2010年03月17日 | 「廿日市地区」ぶらり


原地区の国道433号線の改良工事で元JA原支店のところから山陽自動車道方面に向かっての工事については以前紹介したが、現在路盤の盛り土工事はほぼ終わりに近づいているようである。
路盤の盛り土はどこから搬入していたのか分からないけれど土砂を積んだダンプが4~5台が連なって運んでいた。今は両側の側道などの工事が行われており完全な完成は次年度以降になるのだろうか。

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