月日が過ぎるのは早いものでもう2週間するとお盆、墓前に供える盆燈籠を例年の如く制作した。2月頃に伐り置いていた篠竹の先を6つに割って朝顔型に組んだ骨組みに赤・青・黄・緑・紫・桃色の色紙を貼り付け角先に飾り房を取り付けたものである。
このような燈籠は浄土真宗安芸門徒を中心に伝承してきた習俗であったようであるが、次第に安芸門徒だけの習俗ではなくなっていろんな宗派(神道の墓碑でもみられた)でも行われており、広島地方の盆の風物詩となっているが、近年後始末の関係で盆燈籠禁止のところもあるようである。
月日が過ぎるのは早いものでもう2週間するとお盆、墓前に供える盆燈籠を例年の如く制作した。2月頃に伐り置いていた篠竹の先を6つに割って朝顔型に組んだ骨組みに赤・青・黄・緑・紫・桃色の色紙を貼り付け角先に飾り房を取り付けたものである。
このような燈籠は浄土真宗安芸門徒を中心に伝承してきた習俗であったようであるが、次第に安芸門徒だけの習俗ではなくなっていろんな宗派(神道の墓碑でもみられた)でも行われており、広島地方の盆の風物詩となっているが、近年後始末の関係で盆燈籠禁止のところもあるようである。
毎日うだるような暑さであるが子供の頃は飲料水は井戸水であり常時汲みだしていないので冷たくなかった。梅雨太郎さんの近くにある清水は山から流出しており冷たかったのでわざわざ飲みに行ったことがあった。
昭和の中頃に観光協会が水質検査をして温泉成分があったので周辺整備して梅雨太郎水と喧伝したので現在のように有名になって多くの人達が水を求めて訪れている。
中道地区の入口、中道橋の袂にあるルース台風による災害復旧記念碑で、碑文によると昭和26年(1951)10月14日に来襲したルース台風により戸数60戸のうち全壊8戸、半壊9戸、死者6名重傷2名、田畑流失5町歩、埋没3町歩の多大な被害があったようである。
当ブログ主が小学低学年の頃であり平良・原地区でも可愛川、長野川、川末川沿いで甚大な被害を被っていたのを覚えている。
早朝ウォーキングをしているとあちらこちらでイヌビワの実が鈴なりに付いていた。イヌビワは名前をみるとビワの仲間のようであるが実をみると小さなイチジクの形をしている。実をきってみるとイチジクと同じようにつぶつぶの花(小果)がみられ、ビワの仲間でなくイチジクの仲間のようである。
佐伯地域を流れる小瀬川(木野川)の護岸で岩倉付近ではコンクリートブロックが普及する少し前の時代に築造されたものとみられる石積み護岸がみられる。
護岸の天端角は丸く仕上げられており画一的なコンクリートを多用した護岸に比して味わいのある護岸である。近年は河川の景観に馴染みやすい石積みの構築物が整備されているようである。
吉賀町六日市のみろく公園わきにある久保田大元神社で、江戸期吉賀地域には大元神社が12社、厳島神社が5社、速田(早田)神社が4社、地御前神社が1社みられ、廿日市地域の神社が多く勧請され祀られているのである。
これらをみると中世からの往来のあった津和野街道(石州街道)を介して廿日市地域との深い交流があったことが窺われるのである。拝殿脇に供えられている玉串の紙垂が色紙であるのが特徴的である。
江戸時代、津和野藩主は重要な勤めであった参勤交代などの往来には津和野街道を東上して廿日市の津和野藩御船屋敷に宿泊しここから海路をとって室津に上陸していた。
津和野から青野山南麓の元笹山地区に向かっていると県道脇から旧津和野街道が残されており笹山川に大きな石橋が架けられている。看板表示によると津和野街道時代の遺構「笹山の石橋」のようである。吉賀町の七日市交差点のバス停脇に「右つわの道」と刻された石碑がある。旧津和野街道のどこかに建立されていたのであろうがいつの時代かに現在地に移設されている。
先日紹介した鷺舞神事までに時間があったので津和野観光の定番、乙女峠マリア聖堂~太鼓谷稲成神社~殿町通りの鯉は前日の雨のためか濁り水で絵にならず。乙女峠マリア聖堂と太鼓谷稲成神社など愚妻が結婚する前に一緒に来たことがあると言っていたが・・・何度も当地を訪れているので記憶が定かでない。
津和野駅前の駐車場脇に昭和14年(1939)に製造されたという蒸気機関車D51194が静態保存されている。津和野駅構内には蒸気機関車の方向転換するための転車台があり、SLが津和野駅で待機する間の排煙を吸い込んで処理するダクトパイプの伸びた排煙装置がみられた。
当ブログ主は撮り鉄ではないのでSLの運行日でない日に訪れて絵にならない画像となった。
津和野町のはずれ塩ケ原地区の道路を走っていると津和野川対岸沿いに巨岩があり、その上部に槽がみられ岩の表面は温泉地でみられるような湧出物で茶褐色に染まっていた。対岸に向かい猪除けの電気柵2ケ所を越えて槽に近づくと静止画像では分からないがブクブクと泡が出て温泉?が湧出していた。手入れがされてなく湧出量も少なくドブ状態で手をつけるのもはばかれた。ところがネットをみるとこの中に入ったつわものもいるようであるが・・・
現在塩井戸と称されているが明治期には塩ケ原鉱泉(耕田鉱泉)といわれ加熱して小規模の温泉として賑わっていたようである。
昨日、津和野町の弥栄神社祇園祭りで舞われる鷺舞神事を是非見たいと思い津和野町を訪れた。頭屋(現在町民センター)から弥栄神社に向かった後、町内の定められた場所で舞っているようである。
鷺舞は舞方(鷺雄雌・棒振・羯鼓)、囃方(太鼓・鐘・鼓・笛)、唄方などで構成されているようである。午後3時出発のために殿町通りの頭屋(現在町民センター)前で優雅な舞を鑑賞して弥栄神社には行かず帰途についた。
玖島大町地区に祀られている八幡神社でかつての石州往還沿いに位置しているので旅する人達も参詣していたのではなかろうか。拝殿には奉納された三十六歌仙額の36面が掲額されているが吹き曝しのために退色剥落が激しい。誰が描いたものかいつ頃奉納されたものか不明である。
下平良地区の西広島バイパス側道脇に2ケ所の逆サイフォン式の吐出桝があり現在は1ケ所のみ水が流れて使用されているようである。西広島バイパスが出来る以前は小野川からの井手があったものとみられ西広島バイパス建設でこの逆サイフォン式水路が設けられたようである。道路下の水路に土砂が溜まったらどのようにして取り除くのであろうか。
旧大野町役場(現大野支所)庁舎で昭和49年(1974)9月に竣工しているが耐震不足のために新庁舎が建築されるよう新聞報道があった。この庁舎はスキップフロアーとされており構造的にコストの掛かる複雑な骨組みとなっている。平坦地に建築されており庁舎建築にスキップフロアーの必要性もないように思われるがなぜこのような設計がされたのであろうか。
旧大野町役場(現大野支所)の鉄骨造の車庫は今では見ることがない鉄骨部材をリベット接合とした建物で、現場接合部分のみボルト接合としてある。
当ブログ主が高校生の時鉄骨鉄筋の校舎を新築しており、鉄骨建て方の時に地上の釜で真っ赤に焼いたリベットを長い火挟みで掴み2階、3階の鉄板製漏斗を持った受け手に向けて放り投げて、火挟みで接合穴に差し込みリベットハンマーで鉸めていたのを思い出した。