新年に向けて速谷神社に奉納する注連縄をつくる準備作業がOLD倶楽部有志達で始まった。今年取入れした餅稲藁のアクタを取る藁そぐりの作業を手分けして行いひとまず終わった。後日コモ編みなど次の作業をする予定である。
新年に向けて速谷神社に奉納する注連縄をつくる準備作業がOLD倶楽部有志達で始まった。今年取入れした餅稲藁のアクタを取る藁そぐりの作業を手分けして行いひとまず終わった。後日コモ編みなど次の作業をする予定である。
街までの所用ウォーキングで寄り道をして串戸の広田神社と下平良の新宮神社を参詣した。両神社のイチョウの葉が黄葉して綺麗であった。新宮神社の後方の山の木が伐採されており法面保護の工事が行われるようであり、絵にならないような後背風景となりつつある。
今回の放浪で最後にせいろ蒸しを食する予定としていたので柳川に向かった。生憎土曜日なので観光客が多く目指すうなぎ屋ではなかったが美味しくせいろ蒸しを食することが出来た。しかし蒸し器の見てくれが・・・
博多駅で孫達に遭う時間に余裕があったので北原白秋生家・記念館を見物して放浪を終わった。
佐賀路のマニアックなところばかり訪れたので、愚妻の要望で羊羹屋が十数軒あるという小城市の村岡総本舗・羊羹資料館を訪れた。羊羹資料館の建物は国の登録有形文化財に指定されているようであり、1階で羊羹と抹茶を頂き小城羊羹の歴史や製造工程の紹介ビデオを鑑賞した。2階の展示室で小城羊羹の歴史的な道具や資料などを見物して総本舗で・・・
筑後川沿いの道路を走っていると赤い長い橋がみられ道の駅ならぬ橋の駅「ドロンパ」があった。小休憩して表示をみるとこの橋は旧国鉄佐賀線の筑後川昇開橋で、大型船の航行にあわせて中央の橋桁が上下する可動橋のようである。現在は廃線で遊歩道となっているようであるが先がある道中なので横目で通り過ごした。
佐賀市諸富町にある大堂神社を参詣した。三の鳥居は看板表示によると島原の乱に出陣した小城藩主鍋島元茂が戦勝祈願成就に、寛永17年(1640)2月に寄進したようである。柱は鋳造円柱4段重ねで2段まで砂が詰めてあり、笠木、島木、貫は銅板を鋲止めして笠木、島木には芯材に松材が使用されているようである。
この鳥居も初めて見る形式の鳥居であり、広島地方では見られないような鳥居三ケ所を訪れることが出来た。
※ 本日、当ブログを開設してから6000日目の大きな節目を迎えることができました。当ブログは見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪して頂き大いに励みとなっております。可能な限りこれからも継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。
佐賀城跡の近くにある松原神社には初めて見る磁器の鳥居と燈籠があった。鳥居は刻銘によると明治23年(1890)10月に西松浦郡の有田町、新村、曲川村、大山村、二里村の焼き物関係者により制作寄進されたようである。灯籠は嘉永3年(1850)8月に有田内皿山の焼き物関係者により制作寄進されたようである。
一の鳥居
二の鳥居
三の鳥居
肥前鳥居のある小城市牛津町の内砥川八幡神社に参詣した。一の鳥居は刻銘によると寛文2年(1662)に寄進建立されており、二の鳥居は正保4年(1647)に寄進建立されている。三の鳥居は刻銘が見られないが天正年間(1573~1592)の寄進建立とみられており、下段の柱経の逓減差が大きく特徴的であるなど最古期の肥前鳥居とみられているようである。当地砥川は古くから石工集団が活躍した地のようである。
昨日紹介した「くど造り」民家と共に佐賀県南部に広く分布しているという典型的な形式の民家である「じょうご谷(漏斗谷)造り」の民家をみるため大詫間地区を訪れた。この地域では三棟の草葺屋根の「じょうご谷」造りの民家がみられた。側面から見ただけでは口字型の屋根は分からないがGoogle Earthをみると口字型の屋根がわかるのである。
屋根形状が口字型であり雨水は中央に集まり「くど造り」民家より雨仕舞には苦労をしたであろう。Google Earthをみると大詫間地域や犬井道地域であちらこちらに薄鉄板葺きの「じょうご谷造り」民家がみられるのである。
佐賀県南部に広く分布しているという典型的な形式の民家である「くど造り」民家が移築されいてる多久市西多久町を訪れた。「くど造り」の民家は屋根の棟がコの字型となっており、くど(かまど)の形をしているのでこのように呼称されているようである。
中国地方ではこのような形の民家を見たことが無いがコの字型内側の谷部分の雨仕舞は苦労をしたであろう。途中で見かけた下画像の三棟の民家もGoogle Earthをみると「くど造り」の民家である。
宿泊は佐賀駅前にしていたので久しぶりに武生温泉の日帰り温泉に入ることとした。入浴した元湯の入口には竜宮城を思わすような楼門があり、奥には武雄温泉新館がみられる。東京駅を設計した唐津出身の辰野金吾が設計した建築で大正4年(1915)に竣工したようである。
昨日は愚妻のリクエストで太宰府市の九州国立博物館で開催されているポンペイ展を鑑賞した。佐賀市に宿泊しホテルから慣れないタブレットより・・・
今日はどこを放浪しようか。
今年の稲作の収穫が終わったので例年の如く米俵を作った。俵の胴体部のコモを編む器具で紐の上に藁をのせて紐を法則的に交差させ順次編み上げ、編みあがったコモを筒状にする。端部分を折り曲げて紐で亀の甲状に編み上げていき片端部を編み上げて袋状になったコモの中に米袋を入れて新米を詰める。
米を詰めてコモの上端を折り曲げて他端と同じように紐で亀の甲状に編み上げ、胴部分の両端ケ所に横縄を二周回して男結びとする。2本の縦縄を飾り十の字として横縄部分で一回りして他端中央で縄束の突起にし、横縄を中央部に回して突起の縄部分に飾りをして完成である。 新米の米俵は今年も元気であった証として・・・
ガイドの案内で一行は五重塔前から香山墓地方面に向かったので一行から離れて瑠璃光寺を参詣した。(当ブログ主はどこに行ってもガイドや添乗員の視界から消える要注意人物)
瑠璃光寺は中世に当市の洞雲寺と深い関りのあった寺であった。下画像は山口県有形文化財の瑠璃光寺正法眼蔵でこの正法眼蔵は洞雲寺に伝えられていたものであるが、洞雲寺住職の遷化にあたり瑠璃光寺住職が秉炬師(導師)を勤めその謝礼遺物として享禄2年(1529)に洞雲寺から瑠璃光寺に寄進されたようである。 (下画像-山口の文化財より)
津和野から山口市徳佐に向かってりんご園でのりんご狩りを行った。梨狩りやぶどう狩りは何度か経験しているがりんご狩りは初めてで、りんご園販売店前では棕櫚皮で作られた猪の親子が出迎えてくれた。徳佐にはりんご園が多くみられ19品種位を栽培されているようであり、この時期は収穫の終期のようであった。